一故人

​永六輔と大橋巨泉(前編)—二人が「六輔」と「巨泉」になったわけ

永六輔と大橋巨泉という放送界の大物二人が立て続けに亡くなりました。放送タレント・作家として草創期から活躍してきた永と、大物司会者として一時代を築いたのち政界にも進出した大橋の人生は、どのように交差していたのか。今回の「一故人」は二人の人生を前・後編に分けて描き出します。

真面目に遊んだ二人

1976年12月、映画『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』(山田洋次監督)が公開された。『男はつらいよ』シリーズの第18作目にあたるその劇中、渥美清演じる主人公の車寅次郎が神社の境内で鯨尺を売っているところへ、警官が通りかかる。鯨尺とは曲尺 かねじゃくとともに、固有の単位系である尺貫法で物の長さを計る物差しだ。しかし1952年に施行された計量法により、尺貫法を用いることは事実上禁止され、曲尺や鯨尺も販売が認められなくなる。映画のなかで、警官が寅さんを何やら言い咎めようとするのはそのためだ。このとき警官に扮したのが、放送タレントの永六輔(2016年7月7日没、83歳)だった。永は当時「尺貫法復権運動」なるものを展開しており、友人だった渥美から直々に出演依頼を受けたのだという。

そもそも永が尺貫法復権運動を始めたのは、曲尺を使っていたら警察に出頭を求められたという、知り合いの指物師(箱・机・箱火鉢などの家具をつくる職人)からの相談がきっかけだった。永がこのことをラジオ番組で話したところ、職人をはじめ多くの支持が集まる。これに乗じて彼は全国各地を旅しながら曲尺や鯨尺を仕入れ、コンサートなどで“密売”したり、警察に自首したりもした(しかし無視される)。

こうした奮闘ぶりに、やがて政党も動き出し、国会に計量法の改正法案を提出するという話も進められた。そのなかで永に政界進出を期待する声さえあがる。ただし、当人としてはあくまで遊びにすぎず、政治的動きには同調しかねた。自分は政界に行くほど人生に飽きていないし、できることなら面白半分という野次馬精神で頑張りたいというのがその言い分であった(永六輔『クジラとカネ売ります—計量法現行犯は訴える!!』)。

大橋巨泉(2016年7月12日没、82歳)もまた1970年代、放送界に身を置きながら懸命に遊んだタレントである。1965年から86年まで21年にわたりナイトショー『11PM』(日本テレビ。番組自体の終了は90年)の司会を務めた大橋は、競馬、麻雀、ゴルフ、釣りなど遊びの醍醐味を自ら楽しみながら伝えた。一方で、ベトナム戦争や沖縄問題など時事問題についても積極的に発言している。

遊びとは本来、カネを使うことであり、後ろめたさをともなうからこそやめられないのだ。だが、大橋のように遊びが労働となり、それをしなければカネが入ってこないというのは、ちょっとした地獄ではないか—と喝破したのはルポライターの竹中労である。その一方で、時事問題を扱いながら政治的発言をするのは、大橋にとって《競馬よりも、はるかに昂奮度が高かろう》と竹中は推察し、ここから彼なら政治を《真剣に洒落のめし遊ぶことができるはずだ》と、参議院選挙に立候補することを勧めるのだった(竹中労『芸能人別帳』)。これが1972年のこと。実際に、この翌年には大橋に参院選出馬の話が持ち上がる。しかし結局、彼がこのとき立つことはなかった。

永六輔は、尺貫法復権運動について、あくまで遊びだと語りながらも、真面目な人たちには受け入れられないと知るや、「洒落で真面目にやってみます」と言い換えた。真面目にやるのもあくまで洒落というわけだが、そう口にすることで、かえって彼の真面目さが際立ったようにも思える。同様に大橋巨泉も、どこまでも真面目に遊んでいたような気がしてならない。なぜなら、彼はついに遊びでしくじったり身を持ち崩したりすることはなかったからだ。

生涯にわたり真面目に遊び抜いた二人は、戦後の放送史に大きな足跡を残した。共通するところ、直接的な接点も多い。ここでそれぞれの歩みをたどってみることにしよう。

個人主義者だった父親の影響

永六輔(本名・孝雄)は1933年4月、東京・浅草にある浄土真宗・最尊寺の次男として生まれた。住職だった父・忠順は、早稲田大学東洋哲学科卒の学究肌で、清貧を愛する頑固な坊主だったようだ。

永の父親は、息子に何ひとつ強制しなかった。後年、中学生になった永は、それが不思議で父にどうして何も注意しないのか訊ねている。これに父は《なんで、わたしごとき者が、おまえにああしろこうしろと言えるんだい? 逆に、おまえのことを、ありがたいと思っているんだよ。だって、おまえのおかげで、わたしは人の親にさせていただいたんだからね。おまえの邪魔なんて、とうていできないよ》と答えたという(大下英治『わが青春の早稲田』)。徹底した個人主義者であったこの父に、永は強い影響を受けた。

一方、大橋巨泉(本名・克巳)は1934年3月、東京・両国に生まれた。永とは同学年にして、同じ東京の下町出身ということになる。父・武治は高等小学校しか出ていなかったが、写真器商となり、カメラアクセサリーの製造で成功を収めた。娘2人に続いてやっと生まれた息子が夭折したため、両親はこのあとに儲けた大橋を跡取りとして大事に育てたという。

大橋の身内には父方・母方ともに遊び人が多かった。母方の伯父のひとりは、丈三郎という名前で宇野浩二の小説『器用貧乏』のモデルにもなったが、実際には小説で描かれた以上に気のいい遊び人だったようだ。これとは反対に、丈三郎の兄にあたる上の伯父はしまり屋で、零落した弟を自分の家作に住まわせながら、その2階にはちゃんと店子を入れて家賃をとるほどだった。克巳にはこの二人の伯父の血が流れていると、親族のあいだでは言われていたという。

父方の叔父二人もまた、競馬、麻雀、女と酒で身を持ち崩し、家を叩き出されている。これに対し父は、酒も煙草も飲まなければ、博打も女遊びもしなかった。徹底した合理主義者にして、永の父親と同じく個人主義者であったという。大橋が遊び好きながら、おじたちのように破滅へと傾かなかったのは、父親の「働かざるもの食うべからず」プラス「働いてカネを得た以上、どう使おうと他人は干渉せず」という人生観からの影響が大であった(小中陽太郎「大橋巨泉」、『人物昭和史5』)。

個人主義者だった二人の父親は、戦争に真っ向から反対した点でも共通する。永忠順は、太平洋戦争の開戦を伝えるラジオの臨時ニュースを聴いて、「東条(英機=当時の首相)のバカめっ」と吐き捨てるように言ったという。これには息子の孝雄少年も、憲兵にでも知れたら銃殺になってしまうんじゃないかと心配した。大橋の父・武治にいたっては、市電のなかで「この戦争は負ける」と大声で言ってしまったがために、特別高等警察に捕まり、顔が腫れあがるほど拷問を受けている。

疎開先でのいじめ体験

永や大橋は、戦時中は小学生(当時は国民学校と呼んだ)で、空襲を避けるため都会から地方へ疎開した世代にあたる。大橋は千葉の九十九里浜にほど近い横芝という町に疎開している。父親が用意のいいことに、関東大震災の体験から「大正時代にあれほどの惨状だったのだから、いま起こったらどうなるか」と、ここに土地を買っていたのだ。

しかし都市と農村で暮らしぶりに大きな隔たりのあった時代のこと、ひ弱な都会っ子は格好のいじめの対象だった。大橋は、自転車に細工をされて足に大けがを負わせられたり、学校の相撲大会でガキ大将を投げ飛ばしたため、あとで呼び出されて「なぜ勝たせなかった」と大勢に寄ってたかって殴られたりしたという。その恨みはのちのちまで残り、ゴルフ場近くに別荘を建てるときも、千葉だけは絶対に選ばなかった。

永の通っていた東京の学校では、大半の児童が宮城県白石に集団疎開したが、本人は病弱のため母・弟妹とともに知人のつてを頼り長野県小諸に疎開している。彼もやはり村の学校の子供たちにいじめられた。だが、世話になっている以上、反抗もできない。疎開中には悲しいできごとも起こった。1945年3月、宮城に疎開していた永の一級上の6年生が卒業式のため東京に向かう。だが帰京した児童たちを待ち受けていたのは大空襲で、ほとんどが家族とともに死んでしまう。永は晩年にいたっても、それを思い出すたび胸がしめつけられると話していた。

大橋にもつらい思い出がある。尊敬していた教師が召集され、兵隊に入る前夜に泊まった千葉の旅館で空襲に遭い死んでしまったのだ。しかし、それを知って悲しむ息子に父は「かわいそうに、犬死にだな」と冷淡であった。軍国少年だった大橋は「犬死にだなんて、ひどい。日本は勝つんだよ、絶対に」と反発したが、「だって、弾丸一発撃ったわけじゃない、旅館で焼け死んで、何の役に立ったい」と突き放されてしまったという。

放送作家「永六輔」誕生

戦争は大橋の父親の予見どおり、日本の敗北に終わる。東京大空襲で、浅草にとどまった永の父と兄は無事だったものの、実家の寺は焼けてしまう。そのため永は、国民学校を卒業したら帰京して旧制早稲田中学に入る予定がしばらく延期され、終戦の翌46年、疎開先の上田中学に進学する。

上田中学には、同級生たちとのいざこざが原因で途中から通わなくなり、そのまま東京へ3年ぶりに戻る。早稲田中学に編入したころにハマったのがラジオだった。当時のNHKの人気番組『日曜娯楽版』を、自ら組み立てた鉱石ラジオにかじりつくようにして聴いた。まもなくして、この番組で募集していた時事コントの投書も始める。

永の実家の寺は大空襲で多くの檀家を失ったことから困窮し、学校の月謝も滞りがちだった。幸いにもNHKに投書が採用されると現金が支払われ、いいアルバイトになったらしい。そのうちに原稿料で月謝が払えるぐらい採用数が増え、NHKから、スタッフが足りないのでコントを書かないかと声がかかる。いざ日比谷にあったNHKに喜び勇んで出かけたものの、子供は入ってくるんじゃないと玄関で止められ、結局連絡してきたディレクターとは会えずじまい。先方も永が中学生だと知って、高校を卒業してから来なさいということになった。

早稲田高校に進んでからも、さまざまなバイトと並行して投書を続けた。同じころ熱中していた歌舞伎をコントのネタにするとよく採用されたという。のちに名乗る「六輔」のペンネームは、当時観た映画『青い山脈』(1949年)からヒントを得た。主演の池部良の役名が「六助」だったのだ。その名に憧れる息子に、父がこんなことを教えてくれた。

《ロクスケという名前は普通はつけない。(中略)六というのは『南無阿弥陀仏』の六文字を示すから、よく弱い子供に、死んだものとして諦めてつける時があったり、やくざが人を殺す時に『六の字にしてやる』といったりもする。/ま、君は体が弱いから、六助でもいいけれど、字面でいえば六輔のほうが……》(永六輔『昭和~僕の芸能私史~』

と、その場で父が達筆で書いてくれた「六輔」の名を、永は高校を卒業し、『日曜娯楽版』のスタッフとなってから用い始める。一方で歴史の教師になりたいとの思いも少しあり、早稲田大学の第二文学部史学科に進んだ。連合国による日本占領が終わった1952年のことである。

「巨泉」は俳号だった

大橋は中高一貫校である日本大学第一中学時代から俳句をつくるようになる。同第一高校に進んだ1950年春には、「巨泉」という俳号をつけた。これはアイデアの尽きない大きな泉というイメージからつけたもので、また「巨」の字は熱烈な巨人ファンだった大橋自身にぴったりと思われた。高校時代の得意科目は英語。ついには父にせがんで駿河台のアテネ・フランセに通って、英会話を学ぶほど熱を入れる。

英語熱のきっかけはジャズ好きになったことだ。戦時中に出征した叔父が置いていったレコードのなかに、何枚かジャズがあった。それを聴くうち、もっとレコードが欲しくなるが、カネがない。そんな彼の強い味方となったのが、当時WVTRと呼ばれていた極東の米軍兵士とその家族向けのラジオ放送だ(のちのFEN、現在のAFN-Pacific)。ラジオから流れる音楽に耳を傾けるうち、アナウンサーの言うことも理解したくなる。英語の学習意欲が高まったのはそこからだった。

大橋がそのころなりたかったのは外交官か新聞記者と、いずれも当時の日本では数少ない外国に行ける可能性のある職業だった。早稲田大学には受験した3学部とも合格し、政経学部の新聞学科を選ぶ。

一方で趣味の俳句は継続し、大学でも俳句研究会に入った。しかしそこへとんでもない天才が現れる。すでに気鋭の歌人として注目され、のちには演劇などでも才能を発揮した寺山修司だ。大橋が4年になっての句会、票を入れた句がことごとく寺山の作だった。こいつにはかなわないと、大橋はこれを機に俳句をすっぱりとやめてしまう。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

donkou きょうは永さんの命日ということで、こちらいまから6時間、無料でお読みいただけます。後編は12日に無料公開予定。/永六輔と大橋巨泉(前編)――二人が「六輔」と「巨泉」になったわけ|近藤正高【07/08 03:07まで無料 】 https://t.co/zQzrNGLoeU 約2年前 replyretweetfavorite

hasmi_t ふたりとも良いイメージはないが(^_^;、この記事は興味深い。(前・後編とも無料分しか読んでないけどw)  3年弱前 replyretweetfavorite

yuruyurukemeko 永六輔と大橋巨泉(前編)――二人が「六輔」と「巨泉」になったわけ|近藤正高 @donkou | 3年弱前 replyretweetfavorite

superesk ふたりとも全盛期を知らないんだけど、結構政治的な立ち振舞も許されていた古き良き時代という感じ。 3年弱前 replyretweetfavorite