横浜1963

ああ、どんぴしゃ。大当たりだよ

このまま捜査を続けると白人社会を敵に回すことになるが、それでも犯人を追うことを決意するショーン。
九月十三日の午後七時半頃に、本牧の米軍住宅の前で、被害者らしき女性を乗せたポンティアック・テンペストを見かけた者がいたとの知らせをソニーから受ける。

 非番の十月二十五日の金曜日、ショーンは息子を友人に預け、妻のアネットを伴って外出した。
 京浜急行で横浜駅まで行った二人は、ショッピングと食事を楽しんだ。
 そろそろ帰宅しようという時、ショーンは「少し寄りたいところがあるので、ここで別れよう」とアネットに告げた。
 夫の特殊な仕事を知るアネットは悲しげにうなずき、何も言わなかった。
 問題は尾行者がいるかどうかである。
 ここに来るまで尾行者らしき白人はいなかったが、ショーンは念のため、駅構内の雑踏を行き来してからトイレに入り、野球帽を目深にかぶってサングラスを掛けた。それから東海道本線に乗り、桜木町駅へと向かった。
 電車の中でショーンを気に留める者は誰もいない。元々、日本人の血しか流れていないショーンは、黙っていれば完全に日本人である。
 桜木町駅前でソニーと待ち合わせたショーンは、ソニーの運転で本牧に向かった。
 クルマが走り出してすぐ、右手に根岸線の延長工事の現場が見えてきた。
 ──たいしたものだな。
 ショーンならずとも、これだけ迅速に日本が復興に向かうとは、米国人の誰もが思っていなかった。
 伊勢佐木町の入口にあたる吉田橋を右手に見つつ、クルマは関内から元町まで走り抜けた。
 元町に差し掛かった時である。白人女性が立っているのが見えた。その女性は奇妙な形の帽子を斜めにかぶり、サングラスを掛けて白手袋をしている。
 いかにも自分が選ばれた人間であるかのような顔をしたこの手の人々を、ショーンは嫌悪していた。
 ──たかが将校の女房のくせに。
 彼女たちはアメリカに帰れば一介の女性にすぎない。しかしここでは、貴婦人のような生活ができる。それが日本人に対する優越感となり、時には高慢な態度に出てしまう。その傾向は、将校本人よりも家族の方に強い。
 彼女たちは慈善活動などに協力することにより、自分が「よき米国人」であることをアピールするが、その仮面の下には、差別主義者の顔が見え隠れしている。
 ある時、汐入の駅前に佇む日本人の若者に、その手の貴婦人が声をかけるのを見たことがある。彼女はチップを払えば、すべての有色人種の若者が鞄を運ぶものと信じて疑わなかった。しかしその若者は何のことか分からず、きょとんとしている。致し方なくショーンが貴婦人に事情を説明してやると、さすがの貴婦人も状況をようやく理解し、「日本という国は変わっている」と呟いた。
「被害者の名前はいちかわなえ。横浜国大四回生。福島県白河市出身──」
 ソニーが「白河ですね」と独り言のように呟いた。
「君は、白河というところに行ったことがあるのか」
「いいえ。ただ同僚に白河の出身者がいて、田園地帯が広がる、のどかな地だと聞きました」
 ショーンにとっては、被害者の女性の出身地がどこだろうと関係はない。ただ、そこには彼女を育てた山河があり、彼女を何よりも大切に思っていた家族がいることだけは確かなのだ。
 ──誰しもがそうするように、彼女も己の将来を考え、横浜に出るという選択をした。どのような将来設計をしていたかは知る由もないが、少なくとも、その計画を断ち切った者がいる。
 ──それが、あのエイキンスなのか。
 それを考えると、やりきれなくなる。
 クルマは元町を過ぎ、山手すいどうに入った。これまでも何度かここを通ったことはあるが、なぜか今は、この湿ったトンネルを通りたくないという気持ちが強い。このトンネルを通り過ぎてしまえば、自分の未来が変わるような気がするからだ。
 山手隧道を出ると、電車専用の本牧隧道を通ってきた市電と道が合流する。市電はほうこうを上げてレールを軋ませ、隧道を抜けてくる。そのためか車道と合流してからも、興奮しているように感じられる。
 クルマは本牧通りを走っていた。
「私は、この辺りに住んでいるんですよ」
 千代崎町と書かれた市電の停留所の前で、ソニーが左奥を指差した。
「もちろん、ここからは見えません。とても小さなアパートですから」
 ショーンは、どう答えていいか分からない。
 それに気づいたソニーは、被害女性の話に戻った。
「彼女の身長は百五十九センチ。日本人女性としては、普通より少し高いくらいです。痩せ型で服装は地味目の物を好んだようです。典型的な学生ですね。ただ──」
「ただ、何だ」
「アメリカへの憧れが強かったらしく、英語を熱心に勉強していたようです」
「あそこで日本語を教えていたというのなら、そうだろうな」
 クルマは小港に差し掛かり、右手にPXが見えてきた。ここにはPXだけでなく銀行、映画館、クラブまであるので、正式には「Community Center of Honmoku Base Camp」と呼ばれている。その隣には、「Bill Chickering Theater」がある。本国とほぼ同時に最新作が封切られることで有名な映画館だが、ショーンは入ったことがない。
 AREA-1、AREA-2、そしてAREA-Xから成る米軍根岸住宅地区の中心が、この辺りである。さらにAREA-2の丘の上には、通称「Bay View」と呼ばれる高級将校向けの住宅地がある。
 この三つのAREAは戦後、本牧・根岸地区で米軍が接収した地区の名称で、米国軍人用の居住区のことである。
 横須賀には基地内に居住区があるが、横浜には大きな基地があるわけではないので、こうした接収地を居住区としている。
 本牧通りを間に挟み、AREA-1は東側に、AREA-2は西側にある。さらにその西一キロメートルほどのところにAREA-Xがある。むろん、どこも日本人の立ち入りは禁止である。
 街には夜のとばりが下り始めていた。道路を隔てた先に見えるCommunity Centerのネオンサインが、はっきりと目立つようになってきた。
「彼女は学生仲間と何度か本牧に遊びに来ていたようで、そこで日本語教室の教師を募集していることを知ったらしいんです」
「まあ、そんなところだろうな」
 PXからしばらく行ったところにある山手警察署にクルマを停めると、二人は歩き始めた。
「目撃者は、この近くにいるのかい」
「ええ、あの店で待ち合わせています」
 ソニーが指差す先には、薄暗いネオンの輝くレストランらしきものがあった。
 ──Golden Cupか。
 店内に入ると、若者特有の甘酸っぱい体臭が漂ってきた。日本の店にしては珍しく小さなステージが見える。つまり夜が更ければ狭い店内は米兵と日本の若者で満席になり、その熱気が充満し、それが繰り返されているうちに、店の壁に独特の臭いが染み付いたのだ。
 ソニーはカウンターの中にいる店長らしき男に目礼すると、ボックス席に一人座る若者の前にショーンを導いた。
 そのギャバジン・スーツを着た青年は、足を組んで何かの雑誌を読んでいた。そのためか、ラバーソールがやけに目立つ。
 ──決して貧しいわけではない。
 この青年が、そこそこの生活環境にあるのは、その着ているものや履いているものを見れば歴然である。
「すまなかったな」
「いいよ、どうせ暇だから」
 青年は雑誌を置くと、ショーンを一瞥し、「何だ、日本人じゃねえか」と言った。
「違う。彼は歴としたアメリカ合衆国軍人だ」
「ふーん」と鼻で笑うと、青年は銀メッキの施された櫛を取り出し、リーゼントヘヤーを撫で付け始めた。
 米国人に物怖じしていないという若者特有の態度と分かっていても、決していい気分はしない。
「和夫、日本人らしく礼儀正しくしてくれよ」
 ソニーにたしなめられ、初めて青年が、そのニキビ面にあどけない笑みを浮かべた。
「あんたに、そう言われるとはな」
「私は日本人だ。礼節をわきまえている」
 二人の日本語のやりとりは、ショーンにも理解できる。
「分かったよ」
 青年は組んでいた足を解いて立ち上がると、「いわかず、十八歳です」と名乗り、頭をペコンと下げた。

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この連載について

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