「大人の愛ちゃん」という見出し
リオ五輪の開会式の模様を伝える東京新聞の記事(8月6日)、その見出しには「大人の愛ちゃん 笑顔」とあり、記事には「今大会は卓球女子最年長の27歳。あの〝泣き虫愛ちゃん〟がキャプテンとしてチームを引っ張る」とある。この2つの記載を事細かにほじくることから考察を始めたい。
「大人の愛ちゃん」というのは、誠に不思議な響きである。この場合の「大人の」は、その後に続く言葉が幼児性を含んでいるからこそ成り立つわけだが、理解しやしすい事例を他に探し出すならば「大人のオモチャ」ということになるだろうか。「大人」と「オモチャ」のどちらを軸とするかは議論が分かれるはずで、「大人の愛ちゃん」という見出しを見て、「もう、すっかり大人になって」と思うか、「それでもやっぱり愛〝ちゃん〟だよね」と思うかは人それぞれである。
周囲は「ちゃん」を取り除こうとしている
この連載でも敬称の問題は「寺田心さん」の回などで扱ってきたし、自著では「乙武君」を長々と論じたこともある。それらとも呼応する議論なのだが、福原愛はどれだけ大人になろうとも、「キャプテン福原愛 笑顔」ではなく「大人の愛ちゃん 笑顔」とまとめられるのだ。福原愛を4歳の時から追い続けてきたフジテレビ・佐藤修は、2005年の時点で福原の母親・千代について「『愛ちゃん』と呼んでいたのが、最近、『愛』と言うようになり、ぼくらには『あの人は——』と言う。きちんと女性としての自立を認めている。それを一番感じますね」(『福原愛 LOVE ALL』卓球王国)と指摘している。
こうして、近しい人たちは長いこと「ちゃん」を取り除こうとしてきたのだが、報じる側がいつまでも「ちゃん」に固執していく。先述の新聞記事は「愛くるしい笑顔を浮かべて行進した」と始まる。福原と同い年の体操・内村航平や柔道・中村美里に対しては使いそうにない表現だ。「愛くるしい」を広辞苑で引くと「(幼児などの顔やしぐさが)大層かわいらしい」とあるし、デジタル大辞泉には「子供や小動物などの、愛嬌があって、かわいらしいさま」とある。こうして幼児性が保持される。「大人の愛ちゃん」との形容は、やっぱり「ちゃん」に軸がある。