横浜1963

Do the right thing」それだけのことだ

横須賀に帰ったショーンは、自分の上長であり、エイキンスの戦友でもある、アンソニー・キャンベルと酒を酌み交わす。そこでショーンは、事件のことやエイキンスに疑いがあることについてうっかり話してしまった。

 あの男が再びやってきたのは、夏休み気分も一掃された九月十七日の夕方だった。
 アポイントメントを入れてきたのが前日だったので、断わってもよかったが、なぜかショーンは、その求めに応じることにした。
 タイトなシェイプドスタイルの背広を着こなしたソニー沢田は、前回と同じように、長身を折るようにして部屋に入ってきた。
 身長が百六十七センチしかないショーンとは、十五センチほど開きがある。
 ソニーは、堅い表情のまま右手を出してきた。その顔つきを見て、ショーンの直感が「何かあった」と教えてくれた。
「どうぞ、お掛け下さい」
「失礼します」
 来客用の椅子に腰掛けたソニーは、最初に来た時のように、背もたれや肘掛けの彫刻を珍しがる素振りもない。
「今日は何ですかな」
 ショーンが事務的な口調で問うと、強張った顔付きのままソニーが答えた。
「今朝の新聞を読みましたか」
「Pacific Stars and Stripes(星条旗新聞)なら目を通したが」
「日本の新聞は、まだですね」
「私は、そこまで日本語にたんのうではありませんよ」
「失礼しました」と言いつつ、ソニーが鞄から日本の新聞を取り出した。
「これは──」
 そこには「殺人」という見出しが躍り、事件現場らしき場所にいる警察官たちの写真が載っていた。
 ──何てこった。
 ショーンは心中、舌打ちした。
「同一犯か」
「おそらく」
「どうして分かる」
「同じ手口だからです」
 それ以上は聞くまでもない。
「いつのことだ」
「九月十三日の金曜日です」
「十三日の金曜日か」
 キリストが死んだ十三日の金曜日は、欧米では忌み嫌われているが、日本では、平凡な日の一つに過ぎない。
「それが、どうかしましたか」
 ソニーも、それに気付いていないらしい。
「いや、いいんだ。それで死亡推定時刻は」
「鑑識によると、二十二時前後とか」
「場所はどこだ」
「フランス山です」
 ソニーが英語で書かれた横浜の地図を広げる。
「ここには、かつてフランスの領事館がありました」
「ああ、知っている。それで被害者は──」
「二十二歳の大学生です。本牧の米軍住宅地区で、子供たちに日本語を教えていたそうです」
 ソニーが遠慮がちに差し出した現場写真を、ショーンは凝視した。
「何てことだ。可哀想に」
「やはり犯人は、異常性癖者のようです」
 写真をソニーに返すと、ショーンは冷静さを取り戻した。
 ──日本で何が起ころうと、犯人が米軍関係者だという明確な証拠がなければ無視する。
 それが、NISに所属する者の鉄則である。
「で、証拠はないのか」
「はい。物的証拠は一切、ありません。唯一、前回の事件、すなわち赤沢美香子の事件と共通しているのは、殺しの手口だけです」
「手口が共通しているからといって、米軍関係者の仕業だとは断定できまい」
「それは分かっています。ですが、こうして新たな被害者が出ているのです」
 ソニーが、食って掛からんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「ネイビーナイフらしき切り口と、被害者が米軍住宅地区で日本語を教えていたというだけでは、米軍関係者が被疑者であるという証拠にはならない」
「あなたは、それでいいのですか」
「私が──、だと」
 ソニーの鋭い眼差しがショーンに注がれる。
 ──これは私ではなく、米軍としてどうするかという問題だ。
 己の冷静な一部が、それを教えた。
 本来であれば、「残念だが、それだけでは協力はできない」とでも言いつつ、この青い目をした日本の警察官をドアまで導くだけで、すべては終わる。そうすればショーンは、日系人としてはかなりましな自分の人生を、これまで通りに歩んでいける。
 ──ただ、それだけのことだ。
 しかしこれ以上、犯人を野放しにすれば、被害者が増えることにもなりかねない。
 突然、ショーンの脳裏に父の言葉が浮かんだ。
「米国で生きたいなら、白人に逆らってはいけない」
 兵卒ならまだしも、白人将校を尋問すれば、もしも無罪だった時、ただでは済まない。
 ──もちろん、たとえ犯人だとしても、証拠不十分で無罪になる可能性が高い。
 そうなれば、ショーンは職を失うことにもなりかねない。
 ──これほど分の悪い賭けはない。
 その時、ショーンの脳裏に、かつてブラウン管越しに聞いたケネディ大統領の言葉が浮かんだ。

 やらねばならないことをやる。個人的な不利益があろうとも、障害や危険や圧力があろうとも。それが人間倫理の基本なのだ。

 またケネディは、こうも言っていた。

 いかなる犠牲、いかなる危険を伴おうとも、すべての危険の中で最も大きな危険は、何もしないことである。

 ケネディの言っていることは、「Do the right thing」が口癖だった祖父の言葉と、ほとんど変わらないものだった。
 ──父さん、俺はあんたのように賢くはなれない。
 胸ポケットからキーを取り出したショーンは、机の鍵を開けると、分厚いファイルを取り出した。ガースから借りてきた、柿ノ浦漁港での事件に関するファイルである。
 ソニーは、それを黙って見つめている。
 ──これを渡した瞬間、俺の人生は変わる。
 頭の中で様々な思いが渦巻く。頭を左右に振る父親と、うなずく祖父の顔が交互に現れた。
 ──「Do the right thing」それだけのことだ。
「これを読んでみろ」
 どさりという音とともに机の上に置かれたファイルを、ソニーが恐る恐る開く。
 それが何であるか気づくや、ソニーはかれたように、ファイルに見入っている。
 席を立ったショーンが、コーヒーメーカーから二人分のコーヒーをカップに注ぎ、その一つをソニーの前においても、ソニーは礼一つ言わない。
 ショーンはカップを手にして立ち上がると、窓から外を眺めた。
 秋の海はぎ、今日も物資の積載作業が行われている。
 別の道へと一歩、踏み出してしまった今、これまで当たり前だった風景も、全く別のもののように感じられる。
 ──軍人でなくなったとしても、自分の人生が終わるわけではない。
 近頃、増えてきたハンバーガー・チェーンの店員になり、時給二ドルで生活することになっても、家族は付いてきてくれるはずだ。
「ありがとうございました」
 ソニーはファイルを閉じると、ようやく目の前のコーヒーに気づいたのか、それをすすった。
「ありがとうございました」という言葉が、ファイルを見せてくれたことに対してか、コーヒーに対してなのかは分からない。
「で、どうしてほしい」
「ご協力いただけると思ってよろしいのですね」
「ああ。個人としてなら協力できる」
「個人としてなら──」
「確固たる証拠が摑めるまで、NISに所属する者としては動けない」
「尤もです」
 ソニーが握手を求めてきた。
 欧米人にとって握手は約束の証であり、それによって自分の正義が試されるのだ。
 ──爺さんと父さんが積み上げてきたものを、俺は無にするかもしれない。だが、それが何だというのだ。これには、人の命が懸かっているんだ。
 ショーンは、自分の体内に流れる日本人の血を感じた。
 ──俺の祖先は、太平洋の荒波にもまれながら、命懸けで鯨と格闘してきた。白人社会が怖くて保身に走れば、祖先に顔向けできない。
 ショーンが差し出した手を、ソニーは力強く握り返してきた。
「それで、何から始める」
「まずは、クルマの足回りを見せていただきたいのですが」
「なぜだ」
「殺人のあった前日は雨でした。フランス山の近くでクルマが止められる場所は、ひどくぬかるんでいたはずです。残念ながらわだちは雨に流されてしまいましたが、タイヤに同質の土が付いていれば証拠になります」
「それでもCircumstantial evidence(状況証拠)にしかならない」
「その通りです。だが状況証拠を積み上げていけば、大きな何かに出くわすかもしれません」
 ──その通りだ。
 捜査の基本は日米共に変わらない。
 ショーンが親指を上に突き立てた。
「あんたの上司は承知しているんだな」
「もちろんです。神奈川県警の威信に懸けても犯人を逮捕する、と息巻いています」
「それじゃ、俺が海軍を解雇されたら雇ってくれるな」
 いかにも米国人らしいジョークに、ソニーが噴き出した。

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