「“べえ”が足りないのよ」
久々に笑福亭鶴瓶の落語会に訪れた糸井重里は開口一番そう言った。
「べえ」とはもちろん笑福亭鶴瓶のことだ。「べえ」のエキスを浴びると元気になる。糸井重里にとってそんな存在なのだろう。
ちなみに言うまでもないが、鶴瓶は「つるべ」であり、「つるべえ」ではない。
だが、やっぱり「べえ」のほうがしっくりくる。
そこには鶴瓶の鶴瓶たる所以が隠されている気がする。
この連載では、「鶴瓶のスケベ学」と題し、その掴みどころのないスゴさを解き明かしていく。
孤高のBIG3にはない幸福感の正体
笑福亭鶴瓶といえば、芸歴40年の押しも押されぬ大御所だ。
しかし、さんま、たけし、タモリの「BIG3」には入れなかった。ビートたけしやタモリ、明石家さんまといった「BIG3」を人は「天才」と呼ぶ。その才気は疑う余地のないものだ。
そして彼らにはひとつの共通点がある。
それは「孤独感」だ。
樋口毅宏はタモリを「絶望大王」、さんまを「真の絶望王」と呼んだ(『タモリ論』)。たけしの絶望感も言うまでもないだろう。彼らは一様にそうしたある種、他者を寄せ付けない孤独感が漂っている。
それは恐らく、本当の意味で他人を信じることができないからだろう。
これは「BIG3」に限らず、多くの「天才」と呼ばれる人物に共通したものだ。
だが、鶴瓶には、それが一切ない。彼にあるのは「幸福感」だけだ。
これだけ才能の塊のような男が、まったく孤独感を感じさせないのは驚異的なことだ。
鶴瓶は常々自分が「性善説」に立っていると語っている。タモリは鶴瓶のことを「自閉症」ならぬ「自開症」と“診断”している。誰に対しても心を開き続ける鶴瓶はまさに病的である。
鶴瓶は、他人を信じている。それができるのは、誰よりも自分を信じているからだ。
多くの人が他人を信じることができないのは、即ち、自分を信じ抜くことができないからだ。
だが、鶴瓶は他人も自分も、つまり人間を信じ切っている。だから、「孤独感」がまったくない。バケモノである。
もしかしたら本当の「天才」とはこういう人を言うのではないだろうか。
鶴瓶のスゴさは“芸”そのものではないのかもしれない
正直言って、鶴瓶のスゴさは一般には伝わりづらい。
同世代の芸人からはもとより、後輩芸人にまでイジられ、ツッコまれ、タジタジになっている姿からは、“大物”感がまったくない。
時にたどたどしく、冗長なトークは、短い時間でフリ、オチを完成させている今のテレビのフリートークからは時代遅れのようにも見える。
好感度は高いが、お笑い芸人が目指すべき頂点とは別の場所。
そんな風に僕も思っていた。けれど、それはまったくの誤解だった。
笑福亭鶴瓶こそが、テレビが、いや、日本人が生み出したとんでもないバケモノであることにようやく僕は気づいたのだ。
たとえば僕がそれを目の当たりにしたのは『鶴の間』(日本テレビ)という番組だ。
ひとりの芸人がゲストとして訪れる。それが誰なのかは鶴瓶には内緒だ。そして本番で初めて対面する。そこから即興の漫才を行うという趣向だ。
いわば、即興で物語を作りながら演技をする『スジナシ!』の漫才版だ。いきなり何も決めていない状態から、漫才をしなければならないのだから、相当ハードルが高い。
けれど、鶴瓶はもちろん、明石家さんまや三宅裕二、劇団ひとり、大竹一樹……とゲストに来る芸人も百戦錬磨の経験を積んできている。約30分のトークを客前で成立させるのはそこまで難しいことではない。
実際、そのほとんどの回で見事に即興のトークを交わしていた。
だが、僕がこの人はバケモノだと気付いたのは、そんな2人のトークがちゃんと漫才に変わる瞬間があったからだ。
対面した当初は、いわゆるフリートークが交わされる。だが、ある瞬間からそのやりとりが「漫才」の掛け合いとしか言いようのないものに変わるのだ。
鶴瓶の出自は落語家だ。本格的な漫才修行の経験はない。
にも関わらず、鶴瓶は相手の語り口に合わせながら、ここぞという瞬間に漫才に変えていくのだ。
僕は鶴瓶のことが急に気になり始めた。それは“鶴瓶に目覚めた”と言っていい。笑福亭鶴瓶はただのベテラン芸人ではない。紛れもない天才のひとりであることに。そしてその天才性が周りの人たちを巻き込みながら発揮されていくという特殊なものであることに目覚めたのだ。
すると彼が日本の芸能史において、重要な場面の傍らに必ずと言っていいほどいるということにも気づいていく。
それを象徴するのが『笑っていいとも!』(フジテレビ)の終了発表だろう。
いつもと変わらぬ日常の『いいとも』が放送されていた13年10月22日、火曜日の『いいとも』のエンディング。いきなり入ってきた鶴瓶がタモリに問いかけた。
「俺、聞いたんやけど『いいとも』終わるってホンマ?」
別の曜日のレギュラーである鶴瓶がわざわざ“乱入”するという形で歴史的番組の終了を発表したのだ。
もちろんこの“乱入”は演出である。タモリ自らが、鶴瓶にその口火を切ってほしいと願ってされたものである。
選ばれたのは他の誰でもなく鶴瓶だった。鶴瓶でなければならなかったのだ。その意味するところは大きい。
たとえば、鶴瓶は日常のなんでもない出来事を寄り道しながらたどたどしく話しながら、最後にはオモシロエピソードに仕立てあげる。それは「鶴瓶噺」としか言いようのない至芸である。
もし鶴瓶の話を聞いた僕らが、それを翌日、学校や職場で「昨日、鶴瓶がこんな話をしてて」と話しても、聞いた人は「どこがおもろいねん」と言われてしまうだろう。
「この『どこがおもろいねん』だけが(相手の印象に)残るわけや」※1
だからなんとなく鶴瓶は“軽く”見られてしまう。
「けど、だから僕は長生きしてるんです」※2
その芸当は、彼の話芸をひとつひとつ分析すればできないことはないかもしれない。
だけど、鶴瓶のスゴさはその“芸”そのものではないような気がする。分析すればするほど、そのスゴさの本質から離れていくのではないか。
人見知り、時間見知り、場所見知りしないこと
60歳を超えた今も、ローカル番組を含めテレビのレギュラーは6本。しかも、多くの番組で企画段階から携わり、『A-Studio』などのように自ら多くの時間と労力を課している番組も少なくない。それに加え、2本のラジオ番組も継続中。そして自身の単独ライブといえる「鶴瓶噺」はもとより、現在は落語に力を注ぎ、落語会などで高座に立ち続けている。
少し前で言えば『紅白歌合戦』の司会を務め上げたかと思えば、その翌年末には「『紅白』からオファーがないから」と牛のコスプレで牛の“授乳”に挑戦したり、ローションまみれで水着の女性たちにダイブしたりといった“ヨゴレ”仕事を喜々として行う。
なんたるバイタリティだろうか。
その源はなにかと問われ、鶴瓶はこう答えている。
「スケベやからかな(笑)」※3
スケベ。まさにそれは鶴瓶を形容するに相応しい言葉だ。
とけるような細いタレ目、常に微笑みを浮かべているような口元、男性ホルモンが旺盛なのをイメージさせるようなM字ハゲ……。その顔はスケベそのものだ。
また鶴瓶はこれからの芸人に必要なのは、「いかに遊ぶか」だと言っている。いわゆる「飲む打つ買う」とは違う“遊び”だ。
「人見知りしない。時間見知りしない。場所見知りしない。そこに対していかに助平であるか。それが芸人にとってのフラになるんやから」※4
いかに助平であるか。貪欲に節操なく様々なものに向かっていけるか、だ。
それは芸人だけではなく、誰にでも当てはまることだ。
ちなみに“フラ”とは落語用語で、理屈では説明できない天性のおかしさ、というような意味で使われる。
糸井重里は「“べえ”が足りない」といった。
その「べえ」は鶴瓶のことであるのと同時に、「スケベ」と言い換えることができるかもしれない。
鶴瓶の言う、「スケベ」とは一体どういうことなのか。
そこには僕らが幸福に生きるためのヒントが隠されている気がする。
今、日本には「べえ」が足りない。
ならば、これから鶴瓶の生き方を通して、「スケベ」に生きる術を学んでいきたい。
※1, ※2:『読売ウィークリー』11年3月18日号より
※3:『SWITCH』14年3月号より
※4:舞台「The Name」パンフレットより
次回「自称、日本で一番サインをしている男」は8/18更新予定