五木寛之と石原慎太郎
1998年のエッセイ『大河の一滴』(幻冬舎文庫)あたりからだろうか、流行作家の五木寛之が、あたかも高齢者向けスピリチュアル伝道師のように見られるようになったのは。このベストセラーを含む一連の彼の著作の精神的な背景には、日本人になじみやすい仏教、なかでも親鸞、そして蓮如がいた。彼は仏教からさらに、アジア全体を見直し、また日本古来の宗教心を問い直した。併せて彼は、昭和を通貫する、大衆の情感としての流行歌を体系的に語るようにもなった。その作品群は高齢層を魅了している。高齢化日本を象徴する作家と言えないでもない。
昨年、彼は80歳になった。若い世代からは、はるか遠くの老人に見えるだろう。しかし彼は本当に老人に変わったのだろうか。そうではない。彼の心はずっと若者のままである。戦後が生み出した最初の若者世代、そのままである。その原点の「若者」を見つめ直すことは、戦後という時代と、時代を超えた「若者」の意味を理解することでもあり、「若者」を80歳に変えたかに見せる歴史性を理解することでもある。
高齢化社会に向かう現代日本では、若者世代が見捨てられていると言われる。だというなら、どうするか。不満や否定性からルサンチマン(怨恨)の虜になるのではなく、歴史のなかで「若者」を自覚する必要がある。五木寛之の文学的遺産はそのためにもある。彼の最初のエッセイ『風に吹かれて』には、時代に自覚的な若者の原型が集約されている。1966年にデビューし、67年に直木賞を受賞してほどなく書かれたこのエッセイは、68年から読み継がれ、今なお絶版にならず総計460万部に達した。
五木寛之は自身を「若者」として、戦後初の若者世代のなかで捉えたが、そのあり方は厳格だった。普通、人は、世代をある幅をもって見る。だが彼の「若者」としての自覚を支える世代意識は狭く、1932年、昭和7年生まれだけに絞り込まれ、一年の差も見逃さなかった。
この年に生まれた表現者は「花の七年組」と言われた。国際的な映画監督・大島渚、日本的情念を映像化した藤田敏八、ベ平連を率いた小田実、戦後リベラルのステロタイプ本多勝一、市井の学者を貫いた小室直樹、五木と同じく大衆文化を冷静に見つめた小林信彦、彼らは昭和7年の生まれである。五木が得意とする音楽の分野でも、岩城宏之、神津善行、冨田勲、小林亜星、船村徹、遠藤実、中村とうよう、がいる。
五木の世代意識にはさらに決定的なことがある。彼の生年月日は、文学者であり政治家でもある石原慎太郎と正確に一致している。1932年9月30日、その日、五木寛之こと松延寛之は福岡県八女市で生まれ、石原慎太郎は兵庫県神戸市須磨区で生まれた。二人はそのことを互いに知っている。二人の人生によって歴史は、80歳を迎えた戦後日本の若者の、相似もし相反もする二つの極点を示した。
五木には当時若手文学のホープとして注目されていた石原慎太郎への静かな対抗心があった。1955年(昭和30年)、石原が22歳のときに書いた芥川賞作『太陽の季節』(新潮文庫)は、「健康な無恥と無倫理の季節!」として話題になり、性倫理の逸脱として読まれた。現代でも石原慎太郎批判のネタに使われることがある。だがその理解は逆である。石原の性倫理は戦後の性倫理を正確になぞっているだけで、むしろ現在の彼が嫌悪している米国の伝統に乗っているだけだった。五木はその逆に日本の歴史の深い闇を覗き込むことで、戦後の性倫理が失ったものを見つめていた。そこに五木文学の芯がある。
「センチュウ派」か「センゴ派」か
五木の作家としての登場は石原より10年以上も遅れた。34歳、1967年『蒼ざめた馬を見よ』(文春文庫)で直木賞を受賞し、作家としての地歩を固め、週刊読売から連載エッセイを頼まれた。これが彼の初エッセイ『風に吹かれて』になる。
1968年に単行本となった際の後書きで五木は、自身の本音はフィクションよりもこのエッセイに表現されていると語っている。
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