(将棋観戦におすすめのおやつ、きんつば)
将棋界における全タイトル保持、といえばもちろん、1996年2月14日に達成された、羽生善治による、七冠制覇が思い起こされる。「将棋界始まって以来のフィーバー」とも言われたが、考えてみれば、それからもう、20年経っている。
それより以前に、全冠制覇のチャンスを得たのは、中原誠だった。王座戦がタイトル戦に数えられる以前の1978年。五冠をあわせもつ中原名人は、残る棋王戦でも挑戦権を獲得。五番勝負で加藤一二三棋王に挑戦した。この時の第1局の観戦記は、芹沢博文八段(当時)が記している。
<これを取れば棋界初の”六冠王”となる。中原ほどの者にとっても一生に一度のチャンスかもしれない。> (芹沢観戦記)
芹沢の観戦記は『××八段の八めん六ぴ』(1982年、力富書房刊)に転載されているものを参照した。「××八段」とは、伏字ではなく、「チョメチョメ八段」と読む。芹沢は1979年からフジテレビで放映されていた「アイ・アイゲーム」に出演していた。「チョメチョメ」とは、その番組内でよく使われていた言葉である。
全冠制覇がかかったシリーズである、という記述は、観戦記の第一譜、冒頭に語られている。ただし、それ以後はもう、触れられていない。羽生七冠の頃とは、時代背景が違う。当時の記録を読み返せば、盤外からは、熱狂的、という雰囲気は伝わってこない。
それより以前、五大タイトルという時代には、後に15世名人を名乗る大山康晴が全五冠を制して、ほぼ盤石の体制だった。中原が圧倒的に強い時代に、中原が六冠を制覇しても、それほど驚くべきことではなかったのだろう。
現在のネット中継のフォーマットに従えば、六冠をめぐる記録に関する情報は、繰り返し伝えるところだ。それと比較すれば、芹沢の当時の観戦記もまた、ごくあっさりしたものに感じられる。
番勝負が始まるにあたって振り駒がおこなわれ、第1局は加藤棋王が先手。 そして、加藤一二三-中原誠戦といえば、盤上の戦いはほぼ、相矢倉となる。「矢倉を制する者は棋界を制す」という言葉は、加藤一二三、中原誠、米長邦雄らがタイトルを争う頃から、語られ始めた。
矢倉特有の、難解な駒組にさしかかるあたりで、昼食休憩。
<(前略)控室でのたわいない談笑のうちに食事は終わり、加藤は自室へ引き揚げる。>(芹沢観戦記)
あっさりとした一文からは、対局者は自室ではなく、控室に集まって、みんなで食事を取ったのだな、ということがわかる。何を食べたのかは、わからない。現代のネット中継であれば、記者が写真を撮って伝えるところだ。
この一局で立会人を務めていたのは、加藤治郎八段(当時、後に名誉九段)。現在の将棋界は、佐藤天彦名人、佐藤康光九段ほか、佐藤姓の棋士が多いが、かつては加藤治郎や加藤一二三と、加藤姓の棋士も多かった。
戦前に棋士となった加藤治郎は早稲田大学出身。将棋界では初となる大学卒の棋士だった。平成の現在では、大学卒の棋士は珍しくないが、昭和の中頃までは、ほとんどいなかった。
加藤治郎は若くして現役を引退した後、将棋連盟の運営や、文筆活動に携わった。戦後に出版されたアマチュア向けの棋書『将棋は歩から』は、現在にも読み継がれている、ロングセラーとなった。
午後、そろそろ戦いが始まりそうなところで、芹沢八段は、立会人の加藤治郎八段について触れる。
<控室のテーブルにもち菓子が大ざらに盛られている。甘党の加藤(治郎)立会人は自分でお茶を入れてきて「こういうのがいいんだ」と言いながらキンツバをうまそうに食べている。> (芹沢観戦記)
六冠制覇がかかった、歴史的な対局の観戦記である。加藤-中原の盤上における戦いは大熱戦となり、レベルは高度だ。棋士である芹沢はもちろんそのポイントを的確に、紙幅を取って解説している。
それでもこの観戦記で、アマチュアの筆者がいちばん印象に残るのは、このきんつばの場面である。加藤治郎の人のよさ、好々爺ぶりが伝わってくるようで微笑ましいし、きんつばいいな、食べたいな、と思う。
というわけで、きんつばを買ってきた。電王戦のスポンサーでおなじみのナチュラルローソンで売られていたのは、しっとりとしたタイプである。加藤治郎先生にならって定跡通り、お茶とともにいただいた。
芹沢の観戦記は、次のように続いている。
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