横浜1963

あんたは、いったい誰なんだ

ソニーはロドニー・エイキンスと会う。
しかし、何の証拠も得ることができなかったため、捜査打ち切りを命じられる。
横須賀基地の海軍犯罪捜査部に事件を引き継ぐため、横須賀へ向かう。

十二

 八月一日の木曜日、ソニーは京浜急行に乗って横須賀に向かった。
 電車内の窓は開け放たれ、風が入ってくるものの、それさえ熱を持っているので、車内の暑さは少しも緩和されない。
 京浜急行線に乗って横須賀方面に向かうのは久しぶりだが、その車窓から見える風景は、以前とはかなり変わっていた。荒れ野や空き地になっていたところには、いつの間にか工場や家屋が立ち、道路を行き交うクルマの数も、格段に増えている。
 ──高度経済成長、か。
 昭和三十五年(1960)、いけはや総理大臣により「国民所得倍増計画」が策定され、日本経済は上昇気流に乗った。とくに機械工業と重化学工業の伸びが著しく、日本経済成長の原動力となった。
 国民の生活は飛躍的に改善され、適齢の労働者は完全雇用状態となる。道路や港湾などの社会資本も充実し、国民の消費意欲は高まった。
 そこには、日米安全保障条約の締結によって、日本は国土の防衛を米国に依存できるようになり、何も生み出さない軍事費予算を、経済政策や産業振興策に振り向けられるようになったといいう背景がある。
 こうしたことから、周りでも「負けてよかった」などと平然と言う輩もいた。
 確かに進駐してきた米軍兵士から受ける屈辱を別とすれば、それを頭から否定することはできない。もしも戦争が中途半端な形で終わり、日本に軍部が温存されていれば、今頃は、新たな敵であるソ連や中華人民共和国といった共産主義者たちと、日本は対峙せねばならないのだ。
 ソニーくらいの年齢だと、徴兵されて戦場に送られていたかもしれない。
 ベトナム戦争が始まってからは、平和と繁栄を謳歌する日本国民に対し、戦地に送られる不安を隠しきれない米軍兵士の顔は対照的でさえある。
 ──戦争とは、いったい何だったのか。
 それは、ソニーの世代に共通した疑問である。
 いくつかのトンネルを通り抜けると、電車はしおいり駅に滑り込んでいった。
 横須賀は米軍の町である。汐入駅からどぶ板通りを通って、米軍の横須賀基地に向かうのだが、その途中にあるバーや雑貨店の看板は、英語で表記されているものがほとんどで、日本の町とは思えない雰囲気を漂わせている。
 昼間のためか、どぶ板通りに米軍兵士の姿はない。しかし夜ともなれば、歩けないほどの人通りになる。そのせいか、この通りには、どことなくえたようなアルコールや小便の臭いが漂っている。涼やかな海風が吹けば、一瞬だけ、その臭いをかき消してくれるが、次の街角で、また臭いはよみがえる。
 シャッターを上げているスーベニア・ショップの店主から、出勤途上のホステスかパンパンと思われる化粧の濃い女性まで、道行く人々はソニーに一瞥もくれない。
 ──この町では、自分など誰も気にしないのだ。
 自分が景色の一つでしかないこの町こそ、ソニーの居場所のように思える。
 汗をぬぐいつつ歩いていると、どぶ板通りが途切れ、突然、青空が広がった。
 国道十六号線を隔てて米海軍の横須賀基地が見えた。その入口のゲートには、星条旗が誇らしげに揚がっている。かつては日本海軍の本拠だった横須賀も、今では米軍に接収され、その管理下にあった。
 それが敗戦国の現実であることを、へんぽんとはためく星条旗が教えてくれる。
 基地の埠頭に停泊している船の多くは輸送船である。その横で、いくつものガントリークレーンが荷の積み下ろしをしている。日用品や食料品といった物資から、整備と点検を終えた車両、M16自動小銃やM79グレネード・ランチャー(てきだんとう)といった銃砲の類まで、ここからベトナムに運ばれるのだ。
 ──今も米国は戦争をしているのだ。
 米国に進歩がないのか、日本だけが取り残されているのか、ソニーには分からなくなってきた。
 国道を渡り、大きな基地の正面ゲートの前に立った。
 そこには、大理石に「United States Navy Fleet Activities Yokosuka Japan」と誇らしげに刻まれている。
 守衛所に名前と用件を名乗り、身分証明書を提示すると、その白人下士官は、ソニーと証明書を入念に見比べた後、通行用ゲートを上げてくれた。
 米海軍横須賀基地の犯罪捜査部は、ゲートを入って正面の建物の三階にあった。ここには、かつて日本海軍の横須賀鎮守府が入っていたが、今は米国海軍の日本司令部となっている。
 明治時代を思わせるような幅広の階段を上がると、「Naval Investigative Service(NIS)」と書かれたドアが見えた。
 NISとは、米海軍内の犯罪捜査をする憲兵隊のことである。
 ドアを開けると、秘書らしき中年の女性がフォックス・フレームの眼鏡をずらし、笑顔で迎えてくれた。むろん席から立ち上がることまではしないが、その笑顔だけで十分に親愛の情は伝わってくる。もしもソニーがPure Japanese(純血の日本人)だったとしたら、そうした笑顔は見られなかったに違いない。
「すいません。神奈川県警のソニー沢田と申しますが──」
 ソニーが身分証を提示すると、それをちらりと見て、女性は左手の扉を示した。
「来られることは聞いています。ノックをしてから入って下さい」
 女性に礼を言ってドアをノックすると、中から「Come on in」という声が聞こえた。
 ──いよいよだな。

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