六
「娘です。間違いありません」
赤沢慎吉は憔悴していた。
霊安室のクーラーは爆音を立てて冷気を吐き続けているが、慎吉の禿げ上がった額には玉状の汗が浮かび、その干からびた唇からは、絶え間なく吐息が漏れている。
「心からお悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
慎吉が深々と腰を折ったので、ソニーも、それに合わせるように頭を下げた。
「こちらで指定の葬儀社に搬送を依頼しますが、よろしいですか」
「はい」と答えつつも、慎吉は、じっと美香子を見つめていた。
取り乱した様子は一切なく、その顔からは一切の感情も読み取れないが、その内面は嵐のように波立っているに違いない。
この世代の日本人男性は、感情を表に出さないように教育されてきている。耐えることが何よりの美徳であると、徹底的に刷り込まれているのだ。
「美しいお嬢さんだったのですね」
ソニーは慎吉を少しでも慰めたかった。
「はい。亡くなった母親によく似た美しい娘でした」
その言葉を嚙み締めるように言った後、慎吉は美香子から視線を外した。
「では、そろそろよろしいですか」
ソニーが促すと、慎吉が覚束ない足取りで歩き出した。
「お辛いところを申し訳ありませんが、美香子さんについて、お話をお伺いしたいのですが」
「分かりました」
「では、こちらへ」
ソニーは慎吉を面会室へと誘った。
面会室に入って窓を開けると、クルマのエンジン音、船の汽笛、夜の七時を告げる時報などが、混然一体となって入ってきた。
──誰が死のうが、生きている者のいる限り、時間は続いていく。美香子の時間は止まったが、犯人の時間は動いている。
慎吉も、そんな理不尽を感じているはずだ。
「さあ、こちらへ」
ドアの脇に立っていた慎吉をパイプ椅子に導いたソニーは、感情を押し殺して仕事に徹しようとした。
ノートの左上の日付欄に「七月十七日(水)」と記すと、ソニーは質問を開始した。
「ご家族あての手紙は、よく来ていましたか」
「はい」
「男性のこととか、何か気になることはありませんでしたか」
「とくにありません」
灰皿を引き寄せると、ソニーは両切りピースを勧めた。
「すみません」
慎吉が煙草を手にしたので、ソニーは卓上ライターを押しやった。
「では、手紙の内容は、どのようなことでしたか」
「こちらのことを心配するものがほとんどでした」
「電話は、どのくらいの頻度でかかってきましたか」
「月に一度くらいです」
「どんなことを、お話ししたのですか」
「手紙と同じようなことです」
「自分の近況については、手紙でも電話でも触れていませんでしたか」
しばし考え込んだ末、慎吉が首肯した。
慎吉には再就職先の社名も知らされていなかった。横浜での美香子のことを、慎吉はほとんど知らないという。
「では、美香子さんは、どのようなお嬢さんでしたか」
話の内容が突然、変わったので、慎吉が驚いたように顔を上げた。
「どんな娘かと言われても──、よく気がつく、賢い子でした」
──よく気がつく、賢い子、か。
ソニーの母も幼い頃にそう言われていた。しかし、そうした才能を一切、生かすことなく、ただ体を売るだけの生涯を送るしかなかった。
「あの、大丈夫ですか」
突然、黙ってしまったソニーの顔を、慎吉が心配そうにのぞき込んでいた。
「すいません。何でもありません」
ソニーは一つ咳払いすると、質問を続けた。
「子供の頃、美香子さんは将来、何になりたいと言っていましたか」
酷な質問かもしれないが、それを糸口にできるかもしれない。
「とくに何になりたいというのはありませんでしたが、本は好きで、よく読んでいました」
「どのような本が、お好きだったのでしょう」
「刑事さん」
おずおずと慎吉が問うてきた。
「そうしたことが、事件と関係あるのですか」
「仰せになりたいことは、よく分かります。しかしわれわれは、美香子さんの人となりを少しでも知りたいのです。そうした点から事件の解決に結び付くこともあります」
「どういう風にですか」
これまで自分の感情を押し殺してきた慎吉だが、その心中は、強い苛立ちを感じているに違いない。
「美香子さんを知ることによって、彼女がどのような行動を取ったか、推定できることもあります。例えば何をしたかったのか、何に憧れていたかとか──」
「分かりました。すいませんでした」
慎吉は納得したというよりも、捜査に協力しなければならないと思い直したに違いない。
「確か、本のことでしたね」
質問は続いたが、結局、慎吉からは、事件につながるような話は聞けなかった。しかし人間としての美香子を、多少は知ることはできた。
美香子は本が大好きで、暇さえあれば、いつも本を読んでいるような少女だった。とくに外国文学を好み、見知らぬ国へ思いを馳せていたという。
また美香子には、すでに世帯を持った兄と姉が函館におり、二人がいたく美香子のことを心配していると、慎吉は絞り出すように語った。
──函館か。
ソニーは、いまだ北海道に足を踏み入れたことはない。行きたい理由も見当たらず、このまま生涯、行くことがないかもしれない。ただ函館は、横浜に似たエキゾチックな町だということくらいは知っていた。
函館に吹く寒風の中、美香子はしっかり前を見つめて、自分の人生を切り開こうとしていた。顔の下半分をマフラーで覆い、頰を真っ赤に染めて自転車に乗るセーラー服姿の少女の姿が、脳裏に浮かぶ。
彼女は、努力に見合った未来が必ずあると信じていたはずだ。人生は生きるに値し、若い時の苦労は、必ず報われると思っていた。風雪に耐えて咲く北国の桜のように、自分にも必ず満開の季節がやってくると信じていたはずだ。
それを断ち切った者がいる。
醜悪な男の本能を抑制できず、これから大輪の花を咲かそうとする女性の夢を断ち切った犯人を、ソニーは心から憎んだ。
──そう言えば、美香子さんの面影は、どことなく俺の母に似ている。
いつしかソニーは、二人の人生を重ね合わせていた。
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