横浜1963

死の瞬間、君は何を思ったのだ

赤沢美香子の勤め先「浜中食品株式会社」で聞き込み調査を行ったソニー。
しかし、有力な手がかりを得ることはできなかった。
そして、美香子の住んでいた長者町のアパートに向かう。

   そのアパートは、長者町一丁目の交差点に面していた。
 長者町は、その名とは裏腹に低所得者が住む町である。それでも伊勢佐木町に近いということもあり、木造の家屋やモルタルアパートは徐々に姿を消し始めており、電車通り沿いにはしようしやな洋装店や、五、六階建ての鉄筋コンクリートのアパートが建ち始めていた。
 ──築五年くらいか。
 美香子の住んでいたアパートには、ソニーの住むぼろアパートのような、裏町の寂れた風情は漂っておらず、どこの公団住宅にも見られるような無味乾燥な雰囲気が感じられた。
 太平洋戦争まで木造が中心だった日本の住宅は、住み心地よりも耐火性を重視するようになり、ここ最近、鉄筋中層の建物が目立ってきている。その反面、どの建物にも個性がなくなり、画一的な形になってきている。
 ──日本人は皆で同じものを好むからな。
 ソニーは冷めた視線で、そうした時代の変化を見つめていた。
 あらかじめ連絡を入れておいたので、アパートの前で不動産屋が待っていた。丸眼鏡を掛けた小太りの中年男である。
 彼によると、別の不動産屋からの紹介で、この物件を美香子と契約しただけなので、彼女のことは、ほとんど知らないという。
 彼女と会ったのも、物件の案内をした時一回だけで、たなとなった後は何の連絡も取り合っていなかったという。これまで家賃が滞ったことはなく、クレームもなかったらしい。
 アパートの管理人は替わったばかりで何も知らないので、不動産屋自ら部屋に案内するという。
 薄暗い階段を上がっていくと、四歳くらいの男の子と擦れ違った。男の子はソニーを見て一瞬、息をのんだかのような顔をしたが、すぐにおもちゃの鉄砲を向け、「バン、バン」と撃つ振りをした。
 ソニーは笑って受け流したが、不動産屋は「うっ、やられた」と言って胸を押さえている。
 不動産屋のおどけた一面を見ることで、ソニーは多少の親近感を抱いた。
 男の子を追うように現れた若い母親は、背中に赤ちゃんを背負っていた。ソニーを見て、男の子同様に一瞬、たじろいだようだが、そうした表情を気取られないよう、軽く会釈して視線をそらした。しかし不動産屋とは知り合いらしく、お互いに驚いたような顔をすると、頭を盛んに下げつつ挨拶している。不動産屋は背中の赤ちゃんの頭を撫でながら、「かわいいですね」などと言って目を細めている。
 一度しか会ったことがなくても、日本人同士というのは妙に連帯感がある。ソニーも日本人だが、そうした関係とは距離を取るように生きてきたので、日本人の特性がよく見える。
 美香子の住んでいた四階に着くと、無味乾燥な緑色のドアがずらりと並んでいた。
 不動産屋がその中の一つの部屋の鍵を開けると、石鹼と香水の混じったような若い女性特有の生活臭が漂ってきた。
 その時、ソニーは初めて、赤沢美香子という一人の人間が、その空間で生きていたのだという実感を抱いた。
「どうかなされましたか」
 先に中に入った不動産屋が、玄関からダイニングに通じるピンクのカーテンを半分ほど引き上げながら尋ねてきた。
「いや、ちょっと玄関周りを見ていただけです」
「さすが、目の付けどころが違いますね」
 不動産屋は、しきりに感心している。
 そう言ってしまった手前、あらためて玄関を見回した。
の横の靴箱の上には、今年ののうさぎの置物があるだけで、電話はない。
「不動産屋さん、店子に電話があった場合、どうしていますか」
「ここは呼び出しです。一階に住まわせている管理人部屋だけに電話が通じており、管理人は、四階すべてで三十ほどある店子の部屋に呼び出しに行きます」
「それは大変ですね」
 一階の管理人の部屋から、最も遠い四階の端の部屋までは歩いて二分ほどかかる。
「そうなんです。最近は電話が増え、それを取り次ぐのが面倒という理由で、前の管理人はやめてしまいました。そんなことがあったので、夜の九時以降は電話を受けないでいいという条件で、新しい管理人に来てもらいました。もちろん、その時間には電話線を外しています」
「前の管理人さんの連絡先は」
「そんなもん、置いていくわけありませんよ」
「ここ数日、赤沢さんの実家から電話がありましたか」
「はい。今の管理人になってからですが、日に何度もあり、その度に呼び出しに行っては不在なので、うんざりしていました。このまま店子にかかってくる電話が増えれば、彼もやめてしまいます」
 不動産屋には不動産屋なりの悩みがある。だがこの場で、それを聞いている余裕はない。
 ソニーは話がそれていく前に、次の問いを発した。

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