第12回 東レとアップル 1979年「まだ来ぬゴールドラッシュ」をめぐるそれぞれの思惑

1979年9月、NECは、パーソナルコンピュータPC─8001を16万8000円で発売すると、TK─80で得たマニアの支持を固めます。NECは秋葉原のアンテナショップ「ビットイン」で、日本の初期のパソコンユーザー、アーリーアダプター層の多くのニーズを吸い上げていました。PC─8001は、これを踏まえて登場した製品です。フロッピーディスクドラ イブを搭載し、ディスプレイとキーボードを備えたその姿は、それまでのTK─80よりも製品としての完成度を高めていました。NEC以外にも、いくつかの電機メーカーが製品のアナウンスを発表しつつありました。アップルは日本市場でのシェアの低下に焦り、資本力のある提携先として東レと交渉を始めました。

登場人物たち

スティーブ・ジョブズ 言わずと知れた、アップルコンピューターの創業者。1976年に創業し、1980年に株式上場して2億ドルの資産を手にした。その後、自分がスカウトしたジョン・スカリーにアップルコンピューターを追放されるが、1996年にアップルに復帰。iMac, iPod, iPhone などの革新的プロダクトを発表しアップルを時価総額世界一の企業にする。

水島敏雄  東京で「ESDラボラトリー」という小さな会社を営む。マイコンの技術を応用し、分析、測定のための理化学機器の開発を行うために作った会社で、ESDという名称は、 Electronics Systems Development の頭文字をとっている。東レの研究員として働いていた時代から大型コンピュータや技術計算用のミニコンに通じており、マイクロコンピュータの動向には早くから注目していた。ESDは日本初のアップルコンピューターの代理店となる。

『スティーブズ』

曽田敦彦 構造不況の中、業績が芳しくない東レが、「脱繊維」を掲げ新分野として取り組んできたのが磁気素材の分野だった。ソニーのベータマックス用としてはさらに薄地で耐久性のあるテープ素材の開発が必要で、45歳になる曽田はこのプロジェクトの中心として部下に20名以上の研究員を従えている。地味で根気のいる仕事ではあったが、東レがハイテク新素材メーカーへステップアップする上でこのプロジェクトは重要な意味を持っていた。

「そう、それはいい。東レがやるのはいい」

電話の向こう側での反応から、水島の耳にはすでに本件が伝わっている様子だった。

「実は私もジーン・カーターからその件でいろいろと相談されましてね。競合するメーカーとは組みたくないってこだわるものでしたから、東レだったらいいんじゃないかって言ってたところですよ。TRCじゃなくて東レ本社、ですけどね」

「何だ、そうだったんですか」

意外なほどに柔軟な水島に、曽田はほっと肩をなでおろした。確かに交渉のプロセスでアップル社は、TRCではなく東レ本体でないと事業は手に負えないとアピールするようになっていた。それは水島の言葉によるものかも知らない。水島は、分析測定機器と併せたシステム販売を展開するため、一九七九年に研究施設の立ち並ぶ学園都市、筑波に事務所を開設したばかりだという。

この年、新たにシャープ、日立、東芝などといった列強がマイコン市場に本格的に参入することが明らかになっていた。さらに、ディーラーや並行輸入業者の登場、そして東南アジアから輸入される安値のアップルクローン機が出回りはじめていた。水島の意見では、まだ歩き出して間もないコンピュータ製品の価格破壊は市場を短命にする危険があり、それを回避するために必要なのは資本力を持った「胴元」ということである。期せずしてかつての同僚に励まされた曽田は、少し自信を深めた。

海を隔ててのアップルとの交渉は楽な仕事ではなかった。東レから次々と寄せられる打診や確認に対して、アップルからの回答はシャンクから送られてくる。急を要するものはテレックスを介して送られたが、基本は書面を郵送でやりとりすることから始めることになる。ファックスはまだ普及していなかった。

それらは曽田が翻訳を添えてそのつど東レ本社の審査室に回された。大手企業の例に漏れず、東レの審査室はアップルからの要求の意味を微に入り細に入り確認するため、そのたびごとに曽田は翻訳に追われ、ここのところそのほとんどの時間がアップル案件に費やされている。

交渉が進むにつれて、当初考えていた東レリサーチセンターの見解とアップル側の見解に多くの違いがあることが露呈してきていた。交渉の最大のポイントは、仕入れの価格である。アップルは輸出にあたっての価格を、米国内ディーラーと同じであると考えていた。商品の引き渡しはFOB(Free On Board)、つまり米国で船に荷積みした時点での製品引き渡しである。海外貿易における商品の引き渡しにはこのFOBと、それに対してのCIF(Cost Insurance Freight)の2種類がある。CIFは商品の船積みから相手国に送り届けるまでの運賃、保険料など一切のコストを売り主が負担するもので、FOBはその逆である。買い手のリスク負担は、FOBのほうが大きいものとなる。さらに為替リスクや手形利息を売り主が負担する形態のものもあるが、アップルの要求する条件は、ドルベースの現金支払いである。

この商慣習の違いは、ディーラーの選定条件にまで及んだ。アップルは、あまり業者を絞りたがっていないようだ。扱いたいというディーラーやショップにはどんどんと商品を卸してほしいという。高額商品を取り扱う場合、日本では卸し先の与信調査を行うのが慣例である。なぜならば、「現金取引」は日本の商慣習にはないからだ。新規の業者と取引きを開始する際には、保証金を預かるなどの手を打って貸し倒れのリスクを回避する方法もあるが、基本的な日本の流通文化は売り掛け、買い掛けという「信用取引」である。

そしてさらに、交渉の途中で出てきた新しい条件、それは、アップルが日本法人を設立する際には独占契約を解除したい、というものである。アップルの考えは、東レの想定していた「日本の胴元」というよりは、むしろ日本市場の地固めにディストリビューターをひとつ置きたいというものに近い。将来しかるべきタイミングがきたら、しかるべき投資とともに直接統治に乗り出したい、ということのようだ。両社の間に立って調整をとっているTRCにしてみると、話を詰めれば詰めるほど、両社の考え方の違いが、いや両国の違いが、歴然としてきている。

アップルの価値観は、日本の古式ゆかしき商文化にしてみれば、実に奔放なものにみえた。この奔放さは、東レリサーチセンター社内、そして東レ本社の関係者の間ではそのままアップルへの不信感となり、時として今回の件を止めたほうがいいのではという声が社内からあがる始末だった。やりとりの間隔も、時間を経るにしたがってだんだんと長くなるようになり、当初のカーターとの盛り上がりは徐々に影を薄くしていった。

スティーブ・シャンクは、時折来日しているようだった。だが必ずしも訪日の連絡が入るとは限らない。日本に広報の代理店を置く準備を進めているらしく、むしろそちらとの折衝に手がとられている様子だった。時として、東レに一度も顔を見せずに帰国することもあるようだ。

こういった軋轢の狭間に立つ曽田にとっては、逆にアメリカの急成長企業にとって日本式の主張は、同じように奇妙なものとして映っているに違いないと思えることも多かった。変化の激しい業種において、時間の無駄遣いは禁物である。アメリカのように、そもそも現金で取り引きしていれば、与信調査など不要なわけである。アメリカの合理性と日本の複雑な流通の違いは、両国の産業の成長速度にも顕著に表れているようにみえる。違いの折衷案を模索しながら貿易提携の基本的な条件の青写真が見えるのは、翌1980年に持ち越されると思われた。

1979年9月、日本電気は、パーソナルコンピュータPC─8001を16万8000円で発売した。日本電気はTK─80で得たマニアの支持を固め、秋葉原のアンテナショップ「ビットイン」で多くのニーズを吸い上げていた。PC─8001は、これを踏まえて登場した製品である。フロッピーディスクドライブを搭載し、ディスプレイとキーボードを備えたその姿は、それまでのTK─80よりもぐんと製品としての完成度を高めていたのだ。日本電気以外にも、いくつかの電機メーカーが製品のアナウンスを発表しつつあった。拡大するコンピュータ市場に日本メーカー各社は、資本力を活かして市場確保の戦略に出はじめたわけである。


無論ESDは、これに太刀打ちできる資本力を持っているべくもなかった。手作りのユーザー報の発行や周辺機器の開発など、ゆっくりとしたペースで販売活動を続けていた。舶来のアップルⅡは、その機能と高価格から店頭では「高嶺の花」となっていた。カーターらアップル側は、この状況に極めて不満げだった。日本市場におけるアップルのシェアがどんどん下がってゆくのは、マスターディストリビューター(総輸入元)の不在が原因だというイメージがアップル側にはできあがっているようだ。


一方、水島はこれに対し、アップルが日本支社を設立することの必要性を強く訴えた。その上でESDは、日本最大のディーラーとして活動していくという腹だった。現状では、アップルは日本市場に本腰を入れているとは思えない。日本市場に対してアップルは決して戦略的政策や投資を打ち出すこともなかったし、メーカー自らによる宣伝広告もまったくない状況が続いていた。ESDが保証や不良交換などのリスクを輸入元として価格に盛り込んだ結果、アップルⅡは市場における競争からは取り残された価格になってしまっている。要するに具体策がないまま、ただ時間ばかりが過ぎているのだ。

ここにもまたひとつ、「まだ来ぬゴールドラッシュ」をめぐって錯綜する構図ができはじめていた。

再び、かつてベンチャーだったアップルの製品に胸をときめかしていたあの時代の空気感を若い世代に伝えたい!!

この連載について

初回を読む
林檎の樹の下で -アップルコンピュータジャパン物語- ✕スティーブズ外伝

うめ(小沢高広・妹尾朝子) /斎藤 由多加

ふたりのスティーブ、ジョブズとウォズニアックが設立したアップルコンピューターは、1977年4月、サンフランシスコで開催されたウェストコーストコンピュータフェアに出展した。ジョブズがこだわりにこだわったベージュ色の本体の数が足りないので...もっと読む

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コメント

T_Kazahaya PC-8001の説明が完全に間違いだらけでどうしようもない記事書いてるねえ 3年弱前 replyretweetfavorite

prisonerofroad #スティーブズ 3年弱前 replyretweetfavorite

Kenzoo6601 「PC─8001は(中略)フロッピーディスクドライブを搭載し、ディスプレイとキーボードを備えたその姿は、」PC-8031を本体と勘違いしてる? > 3年弱前 replyretweetfavorite

mangahonz @takapon_jp 『 3年弱前 replyretweetfavorite