四
ウォーケンの事件は一応の解決を見たが、「横浜港女性変死事件」は、依然として手掛かり一つ摑めなかった。
七月九日、ソニーは捜査を再開した。
この日から娼婦たちにも聞き込みを掛けることにしたので、絵が得意な者に頼み込み、遺骸の似顔絵を描いてもらった。これなら顔を背けられることもない。
ソニーは市電を乗り継ぎ、黄金町に向かった。黄金町や初音町には、「ちょんの間」と呼ばれる売春宿が多くある。
「ちょんの間」は、大岡川沿いに作られた間口二メートルたらずの店で、それぞれに「小百合」「舞子」「愛」などといった女性名が付けられている。こうした店は名目上、スナックとして登録されているが、一階で酒食を供し、給仕する女が気に入れば、二階で事に及ぶという仕組みである。むろん飲み食いせずに、即、二階に直行する客も多い。
黄金町や初音町の「ちょんの間」は二百五十軒余もあり、三人の女が三交代で勤務する二十四時間体制を敷いていた。それでも、客があぶれるほど盛況である。
つまり「ちょんの間」に勤める娼婦の数は、七百から八百人に上る計算になる。それだけの数の女性が、こうした仕事に就いているというのは、考えようによっては悲惨である。
──それもこれも戦争に負けたからだ。
戦争未亡人が生きていくための仕事は、極めて限られている。しかも男を戦地に取られ、婚期を逃した女性も数多くいた。そうした女性たちが、めぐりめぐって娼婦に落ちてしまう話は、警察にいれば嫌でも耳に入ってくる。
戦争の生み出した澱を、日本は昭和三十八年の今でも引きずっている。それがソニーであり、ここで働く女性たちなのだ。
首に掛けたタオルで噴き出る汗をぬぐいつつ、ソニーはYシャツ姿で、懸命に聞き込みを続けた。しかし娼婦たちは、かかわり合いになるのを恐れているのか、皆、似顔絵を一瞥しただけで首を左右に振る。
娼婦たちは、一様に腫れぼったい顔に厚化粧をしていた。その安っぽい化粧品の匂いが、汗の匂いと混ざり合い、悪臭としか言いようのないものを生んでいた。だがその匂いこそ、ソニーが子供の頃から慣れ親しんできたものでもある。
九日も収穫はなかった。
夜になってから県警に戻ると、机の上にいくつかの書類が載せられていた。
そこには福西ののたくった字で、「候補をいくつか挙げておいたで」と書かれていた。メモまで関西弁で書くことはないと思いつつも、ソニーは心中、彼らの働きに感謝した。
そのリストには、横浜で働いているはずだが最近、連絡が取れなくなり、近親者が地元警察に捜索願を出している者の名が書かれていた。
年齢や身長など、いくつかの条件の絞り込みがなされており、十一名の候補が挙げられている。
メモによると、それぞれの出身地の警察には、すでに遺骸の写真が送られており、現地の刑事や警察官が、近親者に確認を取ることになっているという。
こうした他県の警察との連携に関しては、さすがに刑事部は手馴れている。
缶に入った両切りピースを手に取り、火を付けようとしたソニーだが、その時、一枚の書類が目に入った。
──赤沢美香子、二十七歳か。
北海道函館市出身の赤沢美香子という二十七歳の女性が、一週間ほど前から連絡が取れなくなっており、実家の父親から、二日ほど前に捜索願が出されていた。むろん写真はないが、年格好は遺骸の女性と合致している。
美香子は帯広畜産大学を卒業した後、地元の食品関係の会社に勤めたが、すぐに退職し、横浜で貿易会社に勤めると言って、数年前に故郷を後にしたらしい。しかしそこには、その貿易会社の名までは記されていない。
翌十日も、ソニーは黄金町の「ちょんの間」や、横浜の遊郭として名高い真金町に聞き込みを掛けた。しかし何の手掛かりも得られず、署に戻る日々が続いた。
広い横浜とはいえ、娼婦関係者から何も得られないということは、遺骸の女性が、その手の女ではないことを示唆している。
──いや、待てよ。
ソニーは、いつの間にか「こうあってほしい」と思うようになっている自分に気づいた。
──少し頭を冷やそう。
さすがにここ数日、多忙な日々が続いたため、この日、ソニーは直帰することにした。