二
湿った空気が、じんわりと汗をにじませる。
もう夜だというのに、襟を押し開いて団扇で風を入れても、いっこうに涼しくならない。
──今日も熱帯夜か。
食堂で熱い蕎麦をすすりつつ、ソニーは飯物にすればよかったと後悔していた。
「まだ七月だというのに、やけに暑いな。何でも本牧の米軍住宅では、全館クーラーが付いとるという話や。やってられんわ」
刑事部捜査第一課の福西徳蔵が、香の匂いが強い扇子を慌ただしく動かしながら言った。食事は随分前に終わっているのに、福西は食堂に居座り、まだ楊枝を嚙んでいる。
すでに五十の坂を越えた福西は、高卒のノン・キャリア組として出世も頭打ちなので、仕事は適当にこなしている。大阪で生まれたというのが自慢で、無理に関西弁を使おうとするが、大阪育ちの者によると、少し発音がおかしいという。
「家どころじゃないですよ。米軍将校の自家用車には、すべてクーラーが付いているという噂です。われわれなんか、扇風機が壊れていても修理してくれないんですからね」
福西と同じ捜査第一課の三浦一也が、壁に掛けられた食堂の扇風機を叩いて直そうとしている。
三浦は二十三歳という若さだが、私大出身なのでノン・キャリア組と言ってよく、熱意を持って仕事をしているとは言い難い。ただ愛嬌があるので、周囲との人間関係は良好である。
ここのところ事件が増え、刑事部は多忙を極めていた。しかし二人の班は、担当していた事件の捜査が一段落し、次の仕事を待っている状態である。
「なあ、そう思わないか。ソニー」
「まあね」
三浦は、一つ年上のソニーのことを、なれなれしくファーストネームで呼ぶ。米国人の習慣をどこかで知ったのだ。
「ソニーは、本牧の居留地で働いてたんやな」
福西の問い掛けに「ええ」と答えつつ、ソニーは蕎麦つゆをすすった。
本牧の居留地とは俗称で、正式の基地施設名は米軍根岸住宅地区というが、横浜に住む者で正式な名称を使う者はいない。
「あん中は、どんな様子や」
ここ数年、『アイ・ラブ・ルーシー』や『名犬ラッシー』といった米国製ドラマの放映が日本でも始まり、福西のような典型的日本人でさえも、米国人の生活に興味津々である。
「こちらと何も変わりませんよ。あの中には、つまらん日常があるだけです」
米軍住宅は、日本人の想像もつかないような生活レベルなのだが、それを語るのも億劫なので、ソニーは会話を流そうとした。
「どこにも、つまらん日常しかないんやな」
福西が「あーあ」と言いながら伸びをした。
普段、署内でこんな雑談はしないのだが、さすがに食堂では緊張感もなくなる。
「来年は東京オリンピックが開かれるので、少しはつまらん日常から解放されます。東京では今、建設ラッシュで大変な騒ぎというじゃないですか」
三浦が話題を転じる。
「しかし今年の夏は暑い。ドカチン仕事も大変やで」
「奴らはヒロポン打って仕事しとりますから、暑さ寒さは感じませんよ」
二人が声を上げて笑う。
かなり前から、日本でオリンピックが開催されるとラジオなどで騒いでいたが、気がつけば、もう来年の話である。
──時の流れは速いものだ。
食べ終わった容器の載ったトレーを横にやりつつ、ソニーが、灰皿に手を伸ばそうとした時である。
「ソニーさん」
外事課の事務を担当している重藤敏子が走ってきた。
「おう、どうした」
「大村課長が呼んでいます」
「分かった」
胸ポケットから取り出そうとしていた両切りピースとジッポを押し込むと、ソニーは椅子を引いて立ち上がった。
「課長は、霊安室まで来てくれとおっしゃっています」
「霊安室──」
先ほど大村が誰かに呼び出され、どこかに行ったのは知っていたが、霊安室とは思わなかった。
「すぐに来てほしいとのことです」
「はい、はい」
トレーを片付け口に置くと、ソニーは「ごちそうさま」と言って食堂を出た。
背後では「事件やな」、「外事課絡みで霊安室ですか。いったい何だろう」という二人の会話が聞こえた。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。