死ぬこととみつけたり』が問いかける日本は誰のものか?(第3回)

隆慶一郎『死ぬこととみつけたり』評、これまで本作が描かれた背景を振り返ってきました。本編に入る今回は、その元になった『葉隠』の「犬死気違ひ」という狂気に満ちた思想から読み解きます。この危険な考え方をなぜ隆慶一郎は物語にしようと考えたのでしょうか?


死ぬことと見つけたり 上巻(新潮文庫)

『葉隠』に描かれた非人道的鍛錬法

時代小説としての『死ぬことと見つけたり』は、奇妙な描写から始まる。

 凄まじいまでに巨大な虎だった。岩の高所に躯を伏せ、血走った凶暴な眼でじっとこちらを見ている。いかにもしなやかな躯が、荒々しく息を吐くたびに波うつように見えた。今にも跳びかかろうという態勢だった。あの大きさでは、一跳びで自分に届くだろう。

この奇妙な光景は主人公・杢之助の想像が描き出したものだ。毎朝、覚醒して起床するまでの間に、ありとあらゆる死の状況をまざまざと想像し、そしてそこで死を疑似体験するのである。この朝は虎に食い殺されることだった。朝一番に自分の死にざまをリアルに思い描く。毎朝、死を感得する。それが杢之助が物心ついたころからの、武士としての心の鍛錬である。いったいどうしてそんな奇妙な鍛錬が出てきたのか。『葉隠』の原典にそう書かれているからである。小説にもその原文が引用されている。

『必死の観念、一日仕切りなるべし。毎朝身心をしづめ、弓、鉄砲、鑓、太刀先にて、すたすたになり、大浪に打取られ、大火の中に飛入り、雷電に打ちひしがれ、大地震にてゆりこまれ、数千丈のほきに飛び込み、病死、頓死等の死期の心を観念し、朝毎に懈怠なく死して置くべし。古老曰く、「軒を出づれば死人の中、門を出づれば敵を見る」となり。用心の事にあらず、前方に死を覚悟して置くことなりと』

なぜこんな精神鍛錬法が存在しているのか。その疑問については隆慶一郎も記していない。『葉隠』についての解説書でも私は読んだことはない。おそらくこれは元来は仏教における修行の一つ、不浄観(白骨観)の派生であろう。肉体が死して腐敗し、白骨に変化するまでの過程を想像して観ずる修行が仏教にはある。インドやチベットでは実際に死者を大地に置いてじっと白骨になるまで見つめるという精神修行が長く伝統となっていた。禅学者・柳田聖山は『禅思想-その原型をあらう』でこうした仏教の原型の側面を書いた。死を見つめる修行方法は、日本の中世にも現世を穢土とする仏教の浄土教信仰で広まっていた。『死ぬことと見つけたり』で描かれる時代に重なる儒者・伊藤仁斎も若いころ不浄観の修行をしていた。日本人は、死を見つめる修行をする民族でもあった。

浄土教の死観想の行法は、極楽に行くためにこの世界の執着を断ち切る手段であった。そこではまだ死は自然的な死の過程だったが、佐賀藩の武士の伝統では、自然的な死を超えて、自然災害から死闘までありとあらゆる死に向き合い、それに怯むことなく死んでいけるための修行となっていた。なんのために? もちろん、死を恐れぬ武士道のためだと言いたいところだが、『葉隠』における武士道とは、死を恐れないというだけではない。死地にあって、有無も言わさず死ねという教えをよどみなく実践する練習である。戦中の特攻隊の思想にも繋がる。非人道的であり、虚無的であり、危険思想そのものと言ってもよい。

武士道とは「犬死気違ひ」
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