AREA-1 Off Limits 立ち入り禁止
一
護岸壁に打ち寄せる波が荒い。吹き付ける北風が、海面に不規則な模様を描いては沖の方へと去っていく。
煙草を吸おうとしたが、風が舞って邪魔をする。左手で風よけを作り、ライターの火を守ると、何とか火をつけることができた。
ニコチンが胸腔に満ち、ようやく人心地つく。
──さて、奴は果たして現れるか。
顔を上げると、五十トンの荷でも持ち上げられるという新港埠頭自慢のハンマーヘッドクレーンが、ずらりと並んだ鉄骨造の上屋群の上に大きな影を落としていた。気づけば日は西に傾き、周囲は暗くなり始めている。
埠頭には静寂が漂い、全く人気はない。聞こえてくるのは海鳥の鳴き声と、どこかで鉄板を叩く音だけである。
──やはり来ないな。
ソニーはコートの襟を立て、そこから去ろうとした。
その時である。
新港橋の方から一台の車が現れた。
──チャイニーズ・アイ、か。
ソニーはぎりぎりまで吸った両切りピースを捨てると、靴でもみ消した。
チャイニーズ・アイとは、つり目四灯ヘッドライトが特徴のプリンス・スカイラインのコンバーチブルである。
ソニーの姿を認めたらしいチャイニーズ・アイは、埠頭に付けられた線路沿いの道を、ゆっくりと進んできた。上屋と上屋の間から差す夕日が、その真紅の車体を照らすので、車体そのものが点滅しているように見える。
やがてソニーの横に停車したチャイニーズ・アイから、体格のいい運転手が下りてくると、冷めた視線でソニーを一瞥し、後部座席のドアを開けた。
「Hi, Mr!」
その四十絡みの中国人は、生き別れた兄弟にでも会ったかのように大袈裟な身振りで、ソニーに近づいてくると、欧米人のするようにハグしてきた。むろん抱き付くふりをして、さりげなく銃の有無を確かめている。
「Good evening, Mr.Wang」
ソニーは映画で見た米国人のように、余裕たっぷりの笑みを浮かべてハグを返した。
「チャイニーズ・アイに乗っているとは、やけに羽振りがいいな。いくらした」
ソニーの問いには答えず、ウォンが問う。
「そのポケットの中にあるのは何だ」
会話は英語で行われる。
「こいつかい」
ソニーが取り出したのは、別名ペンライトと呼ばれる小型の懐中電灯である。
「なぜ、そんなものを持っている」
「これから暗い船室でブツを見せてもらうんだ。プロのバイヤーとして当然のことだろう」
ソニーがペンライトを点滅させると、ウォンは納得したようである。
「ここには、どうやって来た」
「指示された通り、海岸通りでタクシーを降りてから歩いてきた」
「ドルは持ってきたか」
「見せ金だけだ」
そう言うとソニーは、シェイプドスタイルの背広の胸ポケットから、百ドル紙幣の束を取り出した。もちろん帯封付きなので一万ドルである。
「手付だけでは取引してもらえない」
「私の指定する倉庫にモノが運ばれてきた時、全額渡す」
「さすが米国人だ。日本の阿呆どもとは違う。取引というものを知っている」
ウォンが先に立って歩き出すと、双頭の埠頭の間に挟まれた船着場まで行き、係留してあったタグボートに乗り込んだ。
すでにタグボートにはエンジンがかかっており、中国系らしき乗組員が一人、操舵室にいる。
「今日はいい日になるよ」
「そうだといいがね」
ソニーとウォンが乗り込むと、タグボートはすぐに岸を離れた。
エンジン音がやけに大きく会話もままならないが、タグボートの舳はノルウェイ船籍の「Ellida」という貨物船に向いていた。もちろん事前に、横浜港に係留してある外国船は調べ上げてきている。
「取引相手はあれか」
「そう、ノルウェイ人」
「信用できるのか」
「もう何度も取引している」
やがてタグボートが「Ellida」に横付けされた。
デッキから顔を出した船員が、手際よく縄梯子を下ろす。
「これを登っていくのか」
高波のせいで、縄梯子はゆらゆらと揺れている。
「もちろん」と言うと、ウォンは怖がりもせずに縄梯子を伝っていく。
船員の手でウォンが船に引っ張り上げられたのを確認したソニーは、呼吸を整えて縄梯子に手を掛けた。
──これも仕事だ。
運動神経に自信はあるが、すでに日は沈み、周囲は闇に沈み始めている。落水しても見つかりにくい上、タグボートが必死に探してくれるとは思えない。
──命懸けだな。
ソニーは、下を見ないようにして縄梯子をよじ登った。
「エリーダにようこそ」
北欧なまりの英語と共に両腕を摑まれたソニーは、強い力で船上に引き上げられた。
恐怖が顔に出てしまっているのか、ウォンと船員はソニーを見ながら笑っている。
「なんてことはない」と答えつつ、コートに付いた飛沫を払っていると、近づいてきた船員が「失礼」と言いながら、ソニーが銃を持っていないかを確かめた。
「もうチェックしたよ」と言ってウォンが両手を広げる。抗議の姿勢である。
「OK、OK」と言いつつ、船員がソニーをボディ・チェックする。
「こいつは何だ?」
船員が、ソニーのペンライトをポケットから取り出す。
「見れば分かるだろう」
船員は一瞥しただけでソニーにペンライトを返すや、「付いてこい」と言い、ソニーとウォンを船長室に案内した。
そこには赤に近い茶色の髭を蓄えた船長がいた。船長は葉巻をくわえ、机の上に足を投げ出してサウスチャイナ・モーニング・ポスト紙を読んでいた。日付が数日前なので、おそらく香港に寄港した際に買ったのだろう。
──ブツと一緒にな。
船長は不愛想にソニーを一瞥すると、ウォンに向かって言った。
「この男は大丈夫だろうな」
「もちろん。これで取引は四度目になる」
すでにソニーは、ウォンと三回も小さな取引をしていた。それで信用を得て、今回の大きな取引の場に連れてきてもらえたのだ。
「付いてこい」
船長が立ち上がった。身長二メートル近くある大男である。
船倉に至るまでに数人の船員に出会ったが、皆、ソニーとウォンを怪しむ風もなく擦れ違っていく。船長が密輸をやっていることを、大なり小なり知っているのだ。
デッキから船内に入り、迷路のような通路を通って、ようやく四人は船倉に着いた。
すでに密輸品以外の荷は降ろしたのか、船倉の中はがらんとしている。
船長と船員はノルウェイ語で何か話しながら船倉の端まで行くと、清掃道具が入れてある小部屋を開けて、その床を指し示した。
「税関も、ここまでは見ない」
船長はにやりとして、船員に床板を外させた。
最初に入った船員が灯りを付けると、三人がそれに続いた。やけに天井が低く、皆、腰をかがめねばならない。
そこには、木箱がぎっしりと積まれていた。
「ヒュー」とソニーが口笛を吹く。
「こいつは凄いな」
「ナポレオンもジョニー・ウォーカーもある」
「どうだ」と言って、ウォンも得意げにソニーの顔をのぞき込む。
「十分だ。で、あれもあるか」
「アメリカ兵は、あれが好きだな」と言いつつ、ウォンが船長にウインクすると、船長は酒箱の一つを指差し、船員にバールで蓋をこじ開けさせた。
そこから出てきたのは酒ではなく、ビニール袋に入った白い粉や茶色の葉だった。
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