プロローグ
──わしの左腕は今頃、どのあたりを泳いでいるのだろう。
今年で五十二歳になる笹部熊吉は、二十年ほど前の秋を思い出していた。
──あの頃、わしは「竹」に乗って、南洋を走り回っていた。
かつて漁師だった熊吉は水兵として徴兵され、駆逐艦「竹」の乗組員となった。
「竹」は、主にソロモン諸島をめぐる戦いに参加していたが、フィリピンのオルモック湾夜戦において、雷撃で米駆逐艦クーパーを沈めるという武勲を挙げる。
熊吉は魚雷を発射管まで運ぶ要員の一人にすぎなかったが、敵艦を撃沈した魚雷を運んだことが、何よりの自慢だった。
この戦いで損傷した「竹」は、幸いにも内地に戻ることができ、そのまま終戦となったので、熊吉も故郷の佐世保に帰還できた。しかし熊吉は、大事なものをソロモンの海に落としてきた。
敵の五インチ砲弾が甲板に命中し、その爆風で吹き飛ばされた時、左肘に何か当たったような気がした。直後は痛みがなかったので、すぐに起き上がろうとしたが、どうしても転んでしまう。それでようやく、左肘から下がすっぱりと切り落とされていることに気づいた。
──あいつは、まだ動いとったな。
慌てて傍らを見ると、左腕の指先は、元の場所に戻りたいと言わんばかりに甲板を搔いていた。
「あっ」と思って、それを摑もうとした瞬間、至近弾が炸裂し、熊吉は甲板の上を逆舷まで吹き飛ばされた。以来、左腕を見ていない。
だが熊吉は、左腕がいまだ生きており、熊吉を探して広い太平洋を懸命に泳いでいるような気がした。
──何を考えているんだ。あいつは、とっくに魚の餌になっている。
それを頭では理解できても、熊吉の体は、どうしても受け入れることができないでいる。いまだ幻肢痛に悩まされているからかもしれないが、いつの日か、左腕が帰ってくる気がしてならないのだ。
その後、熊吉は故郷の佐世保柿ノ浦に復員することができたが、片腕で漁師の仕事はできない。致し方なく自分の船を売り払い、漁協の仕事を手伝いながら、今は障害年金で暮らしている。
仕事を失い、嫁の来てもなかったが、それでも死んでいった者よりはましだと思う。
ここのところ日本中が好景気に沸いているので、若い者たちは東京に行ってしまい、漁師のなり手も少なくなった。そのため最近は漁協の仕事も暇になり、漁船が出払っている午前中、熊吉は釣りをするようになっていた。誰に断るでもなく、そんなことをしていても注意されることはない。戦後二十年近く経った今でも、戦傷者は大目に見てもらえるからだ。
この日も、漁港の桟橋で釣りをしていたが、早朝からぽつりぽつりと降っていた雨が十時頃には本降りとなったので、漁協のある建物に戻ることにした。
小走りに建物を目指していると、駐車場に見慣れない車が止まっていた。
──ヤンキーだな。
佐世保に米軍基地ができて以来、二十キロほど離れた柿ノ浦でも、米兵の姿が見られるようになった。しかし、外車に乗っている者は珍しい。
──将校に違いない。
車の前を通りかかった時、ちらりと見ると、白人の中年男が運転席に座っていた。助手席には、日本人の女がいる。
ナンバーを見るとAナンバー、つまり米軍関係者の個人所有車である。これが軍の所有だとYナンバーになる。
それを見たとたん、怒りが込み上げてきた。
熊吉とて、正々堂々と戦った敵を恨む気持ちはない。腕を一本取られたからといって、敵も懸命に戦った結果なのだ。しかし、いくら日本が負けたからといって、国土をすべて占領し、やりたい放題をするのは行き過ぎている。昭和も三十七年(1962)になり、戦争が終わってから十七年も経っているのだ。
熊吉は車の前を通り過ぎる際、ワイパー越しに白人将校をにらみつけた。だが将校は気にも留めず、女と楽しげに話をしている。
日本にいる米兵は、申し合わせたように日本人を無視する。
──つまりわしらは、風景と同じだ。
なぜか米兵やその家族は、日本人に感情がないかのように誤解している。米兵住宅の掃除に雇われている熊吉の友人など、「白人の女は、おれたちがいても平気で裸になる」とこぼしていたが、彼らは日本人のことを、動物か何かと勘違いしているのだ。
熊吉が女にも視線を合わせようとすると、女はそれに気づき、すぐに顔を隠すように俯いた。
──まさか、堅気か。
その女は、どこから見てもパンパンには見えない。漁協や信用組合で事務をしている女性だと言われれば、誰もが信じるだろう。
──まあ、パンパンにもいろいろあるさ。
食べるに困って、身を持ち崩してしまう女性も多い時代である。
無理に自分を納得させた熊吉は、漁協の建物に向かって駆けていった。
その翌日のことである。
熊吉が、いつものように釣り道具を携えて漁協に顔を出すと、皆、騒然としている。
理由を聞くと、朝一番で出航した漁船が女の死体を上げてきたというのだ。
すぐにピンと来た熊吉は、まだ桟橋にいるという警察官の許に向かった。
この年の末頃まで、佐世保柿ノ浦漁港は、この話題で持ちきりとなった。