「文芸の外の人」と牽制した湊かなえ
三島由紀夫賞を受賞した蓮實重彦の「『ロック』な記者会見が話題」(J-CASTニュース)となり、この手の「ロック」の使い方を毛嫌いし続けてきた私は、その言葉遣いへの絶望を表現することで新たなロックを生み出せるのではないかと思ったほどだが、むしろ熟考したくなったのは同じタイミングで山本周五郎賞を受賞した湊かなえが、同賞にノミネートし次点だった押切もえ作品を手厳しく牽制したエッセイである。「小説新潮」(2016年7月号)に掲載された受賞記念エッセイには「文芸の外の人が2作目なのに上手に書けているという、イロモノ扱いのままで審査された作品と僅差だった」と、明らかに押切と分かる表現で綴り、「二番煎じの愚策に巻き込むのは、どうか今年限りにしてください」と又吉直樹の芥川賞受賞をも意識した言葉で締めくくった。
それにしても「文芸の外の人」という言い方は奇妙である。文芸の世界には、誰しも外から入る。「オレは文芸の世界に生まれた」と気持ちよく豪語してしまうのは、小説講座に十年以上も通い詰めて、生徒のはずなのになぜか評者っぽく振る舞う年長者くらいのものである。絶えず外から人が入ってくるからこそ文芸が活性化する。各選考委員の選評を通読してみると押切を「イロモノ扱い」している選考委員は皆無で、むしろ、イロモノだと思われるのは酷だろうから、そうではないと伝えるための丁寧な書き口を重ねている。タレントのマネージャーやフリーランスのスタイリスト、語学スクールの事務員など、「女性たちの希望と焦り、夢と曲がり角」(宣伝コピーより)を描く短編集を、予想以上に選考委員は褒めている。その上での苦言の呈し方が似ていて、「すべて穏やかなハッピーエンドに終わるのが納得できなかった」(石田衣良)、「心温まる話にしよう、気持ちよく読み終えられるようにしよう、という思いが先立ちすぎた」(唯川恵)といった、上手く書けているんだけど、さすがにハッピーすぎやしませんか、との注文が続いた。