(みろく庵の肉豆腐定食、みそ汁に餅入り)
6月22日、水曜日。
いつもであれば、穏やかに訪れるランチタイムを前にして、観る将棋ファンの間に、衝撃が走った。
この日は東京・千駄ヶ谷の将棋会館で、A級順位戦1回戦、三浦弘行九段-広瀬章人八段戦がおこなわれていた。戦形は、時代の最先端をいく、横歩取りである。既成概念にとらわれない、新手(しんて)が多く出ることでも知られている戦形だ。
将棋はわずかに、先手番が有利だ。そこで、後手番を持つ側は、少しでも有利な手段を見つけようと、研究をする。先手有利が定説となっていた横歩取りは、どちらかといえば、マイナーな戦形であった。そこへ、内藤國雄九段や中原誠16世名人らが後手番の指し方に、新たな工夫をほどこしていった。
そして1997年。中座真現七段による、新手が登場した。「中座流」と呼ばれる革命的な手法は、横歩取りの後手番に、大いなる可能性をもたらした。以後、横歩取りは一大ブームとなり、名人戦やA級順位戦などでも数多く指され、メインの戦形として、定着している。
A級順位戦で横歩取りが指され、時代の最先端の新手が出て、驚くことはあるだろう。しかし今回、誰もが驚いたのは、以下の情報が伝えられたためである。
<昼食の注文は三浦が肉豆腐定食・みそ汁に餅入り(みろく庵)、広瀬が里芋煮定食(みろく庵)。>
(「名人戦棋譜速報」より)
将棋会館の近く、千駄ヶ谷の食事処であるみろく庵から、肉豆腐定食や、里芋煮定食を、出前で注文する。ここまでは、よくわかる。将棋界の定跡でもある。
驚くべきは、三浦九段のオプションである。
みそ汁に、餅を入れる。
筆者が知る限りでは、これは新手である。
前提の知識として、みろく庵では、そばやうどんに、餅を追加することができる。一つ入れて、50円。このオプションは、よく採用される。うどんに餅を入れれば、関東ではちからうどん、関西ではかちんうどん、と呼ばれる。それは不思議でもなんでもない。
では、みそ汁に餅、というのはどうなのか。
みそ仕立ての餅雑煮、というのはあるだろう。しかし、みそ汁に餅を入れるのは、それとは似て非なるものなのではないか。そういう食文化の地域はあるのか。
「みそ汁の具には何を入れますか?」
「あなたの出身の地域は、どんなお雑煮?」
という平和な問いかけ、アンケートはよくなされる。みそ汁の具のランキングを見れば、人気1位の豆腐を筆頭に、わかめ、油揚げ、ねぎ、などなど、おなじみのラインナップが並んでいる。しかしそこには、「餅」という字は見つけることができない。
また、みそ汁に餅を入れれば、それはメインに匹敵する存在となる。肉豆腐定食であれば、肉豆腐と、両雄並び立たずという状況になりはしないのか。
「そもそも肉豆腐とみそ汁は、同じ汁物である」
将棋界のトップ棋士であり、みろく庵の肉豆腐定食の愛好者であり、また合理主義者として知られる渡辺明竜王は、そうした考えのもと、肉豆腐定食からみそ汁を抜いて注文をする。この渡辺流の思想は、いかにも合理的であり、フォロワーは何人もいる。
一方で、今回の三浦流は、その思想に、真っ向から対峙するものではないのか。
また、餅の原材料は、言うまでもなく、コメである。茶碗に盛られた白いご飯、つまりはメシと、ダブることにはならないのか。
観る将棋ファンとともに、筆者の脳裏にも次々と、疑問が浮かんでいく。
中継のページを見ると、アップされた肉豆腐の写真は、いつもの通りのものであった。みそ汁に、餅が入れられている形跡はない。これは後日、現物を確かめにいかなければならない。筆者はそう決心した。
三浦九段-広瀬八段戦は、激闘の末に、広瀬八段が勝った。三浦九段は、昼はみそ汁に餅、夜はふじもとでうな重の松を頼むという力の入れ方を見せていたが、残念ながら今回は、その姿勢は実らなかったようだ。
対局から少し経った、6月30日。筆者は千駄ヶ谷へと出かけた。
将棋の中継で、再三再四登場するみろく庵は、千駄ヶ谷の食事処である。昼は各種定食から、そば、うどんまで。夜は居酒屋として繁盛している。棋士が食事を出前で注文する際の定番のお店であり、そばのほそ島や、うなぎのふじもと、などと並んだエース格、先発の大きな柱だ。
みろく庵のメニューはバラエティに富んでいる。中でも、肉豆腐定食は人気が高い。土鍋でどんと出てくる肉豆腐はボリュームがあって、コストパフォーマンスが高い。
(みろく庵の肉豆腐)
将棋界で「NDF」といえば、強豪将棋ソフトの「NineDayFever」(ナインデーフィーバー)の略である。と同時に、「肉豆腐」を思い浮かべる人もいるのではないか。いないですか。筆者はそうでした。
JR千駄ヶ谷駅を降りると、左手には、多くのスポーツイベントやコンサートなどが開かれる、東京体育館が見える。この日はちょうど、小田和正さんのコンサートがおこなわれるところで、準備のために、大きな車が止まっていた。
信号を渡って真っすぐ行けば、鳩森神社や将棋会館。みろく庵は右の方、代々木方面にしばらく進んだところにある。
みろく庵の前には、すぐには目で追いきれないほどの、多くのメニューが並べられている。また店頭には筆書きで大きく、こう掲示してある。
天高く 風さわやかに 吹く秋は
うどんも そばも 美味くなる
みろく庵
本格的な夏が始まろうという、この時節に、このPR。よくわからないが、みろく庵のうどんとそばは、夏でも美味しい。
ただし、今回のターゲットは違う。
扉を開けて中に入ると、ランチタイムとあって、狭くない店が、ほどよく混んでいる。奥の4人掛けの席に通され、改めて品書きを開いてみたが、もう注文は決まっている。忙しく立ち働いている店員のおばさんの手が休まるタイミングで、声をかけた。
「肉豆腐定食でお願いします。あと、みそ汁にお餅をひとつ入れてもらえますか?」
おばさんは、どのような反応をするだろうか。もしかしたら、「みそ汁に餅」というのは、誤情報ではないのか。冷淡な口調で、「うちはそういうのはやってません」と言われるのではないか。あるいは、嘲笑の笑みを浮かべ、「みそ汁に餅なんて聞いたことがないね」と言われるのではないか。
そうした心配は、すべて杞憂だった。おばさんは忙しそうに、表情を変えず、「はーい」と伝票に書き込んでいく。あっ、やっぱりありなのか。そして、客に決まりのわるい思いをさせない。このおばさんはプロフェッショナルだ。思えば筆者も、みろく庵にはどれほどお世話になってきたか。肉豆腐定食とは関係なく、また来よう、と思った。
ちょうどこの日(6月30日)は夏越の祓(なごしのはらえ)だった。鳩森神社では毎年、厄払いのため、茅の輪(ちのわ)が据えられる。あとで寄って、茅の輪をくぐり、名物の鳩のおみくじでも引いてみるか。
そんなことを考えているうちに、肉豆腐定食一式が運ばれてきた。
「おみそ汁は、おお負け、サービスよ!」
おばさんが、そう教えてくれる。インディーズ系の食事処では、こうしたサービスが嬉しい。みそ汁に餅を入れるため、いつもの細長い上品なお椀ではなく、どんぶりにしてくれたというわけだ。必然的にみそ汁の量が増え、ボリュームはさらにアップすることになる。
どんぶりに目をやれば、膨らんだ餅が、氷山のように浮かんでいる。外に見えているのは、文字通り一角なのだろう。いつもは名脇役、小駒クラスに思っていたみそ汁が、50円の餅がひとつ入ることによって、大駒クラスの存在感を放っている。
将棋の布陣には、各人の好みが現れる。20枚の駒をどのように配置するか。基本的にバランスよく、主力の駒を配置するのに、守りは金銀の3枚、攻めは飛角銀桂の4枚が理想系だ。定食もまた、バランスがなくてはならない。
そこへ、餅入りのみそ汁。体感的には、金銀3枚の矢倉に、もう1枚金がはりつき、ねっとりとした、通常ではあまりみない陣形を見つめているような気がした。
思わず私は、おばさんに話しかけた。
「これはいいですね。将棋の先生が、みそ汁にお餅を入れたって聞いて、それを真似したくなったんですよ」
店の人たちが一斉に、
「ああー」
と声をあげる。やはりその注文は、印象に残っていたらしい。
「他にみそ汁に、餅を入れる人はいますか?」
と尋ねてみると、
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