「若者文化」というものは、かなり、無理に作られていったところがある。
若者のみが作りだしうる文化は、むかしからあった。ただ、その文化を認知し、広め、多くの若者を巻き込み、長く存続させるには〝外の力〟が必要である。若者の力だけで、若者の文化は定着しない。無理に作られる、というのは、そのことを指している。
そもそも、その昔、人類社会には「若者」というカテゴリーすらなかった。
役に立つ存在(おとな)と、しばらく役に立たない存在(こども)だけに分けられていた。
役に立たない存在であっても、それなりの役割を持たされている。すべてのヒューマンビーイングは(人間のことですが、なぜかヒューマンビーイングと呼びたくなる)、何か役に立つことをして、自分たちの属する社会を保っていた。老いてようと、若かろうと、おとなはおとなである。生殖機能を備えていて、何かしらの「しごと」をしていれば、すべておとなであった。若いほうだけわざわざ別扱いのグループにはしなかった。
「若者」という概念がリアルに持てるようになったのは、ひょっとして20世紀になって、ムービースターが登場するようになってからではないか、と、ふと、おもう。20世紀になると人類はそれまでより少し豊かになり、少し余裕ができてきた。そのおり〝この人はその若さだけに生きている〟と多くの人に直観的に信奉される可能性があったのは、無産者で芸人で圧倒的多数の人にその存在を共有されていた存在であるはずで、それはムービー・スターが最初ではなかったか、とおもうのだ。あくまで、いまおもいついた推測にすぎないうえに、具体的な俳優名があげられないけど(ルドルフ・バレンチノくらいしか浮かばない)そういう不思議な感覚を20世紀当初に人類が初めて持ったことは間違いないんではないか、と直観的におもう。
20世紀には1910年代と1940年代にヨーロッパ全域を巻き込む戦争が起こり(40年代はアジアも巻き込まれました)、多くの若者が徴集された。このふたつの大戦は、それまでの職業的軍人にまかせた職業的戦争とは様相が異なり、大量殺戮がふんだんにおこなわれた。あまりに多くの兵士が簡単に死んでいくので、より多くの若者が駆り出されるようになった。すさまじい数の若者が、ごく当然のように戦争で死んでいった。それまでなかったことである。
それは、いろんなものに影響を与えた。
それぞれの戦後、それぞれ若者の行動が目立つようになった。このふたつの大戦によって「若者」という概念がより強く意識されるようになったとおもう。
あっさりいえば、この新しい「若者」たちは、自分たちだけの消費活動(文化活動)を始めたのだ。上の世代にはわかるまい、という気分で活動をした。その活動が可能だったのは「だって戦争で死ぬのはおれたちの世代だろ」という圧倒的な気分である。そう言われれば、上の世代は何も言い返せない。最初の欧州大戦のあと、いわゆるロストジェネレーションと呼ばれた世代は、自分たちだけの享楽的な世界を生み出したのであるが、次の大戦までの時間的余裕があまりになく、あっというまに1930年代の素敵なファシズムの渦に巻き込まれ、もう若者ではない状態で次の大戦に臨まなければいけなくなった。継続されるような若者文化は創ってる時間がなかったのだ。
だから、第二次大戦後、あらたに若者文化が形成されていった。
こちらは、なぜか、残るような文化になった。次の世界大戦が20年で起こらなかったためだとおもわれる。(つまり、ケネディがつっかけそうになったときに、フルシチョフが引いていったからだといえるわけですね)。それに、世界的に資本主義が広がっていったこととも関係してるのだろう。
もとは、上の世代が手をつけてなかった分野を自分たちだけで楽しんでいた。それはいつもの世代と同じだ。
それが、なぜか電撃的に広まり、世界的に受けていった。
この世代が象徴的に求めたのは「新しい音楽」である。
ロカビリーから、フォーク音楽にロックミュージック。
これらの音楽を楽しめるものだけが、若者だった。
若者ではない世代は「ただの騒音だ」と渋い顔をした。
上の世代に渋い顔をされれば、成功である。
うるさい音楽は若者のものとなった。
ただ、より強く「若者だけのもの」とするため、暴力的要素をまとっていった。
暴力とは。
ひとつはドラッグ、もうひとつは政治的主張である。
上の世代の中にも、ロックミュージックをただの騒音だとはおもわず、楽しい音楽ではないか、と感じる人たちもいるだろう。ただ、若者は自分たちの文化に理解顔でやってくる上の世代を受け入れたくない。拒否したい。逆流を許さない強固な弁をつけたい。
それが、この暴力的要素だった。
〝ドラッグ〟を吸引し、音楽を愉しむとなると、社会的地位のある人たちはまず忌避することになる。ドラッグはまだ違法すれすれのラインで存在していたのだが(基本は違法だけれど新しいドラッグには法が対応していなかった)、それでもきちんとした大人は手を出すものではない。ドラッグでトリップしたところで、どうせ戻ってこなくてはならない。そんなことにいろんなものを賭けてもしかたがない。大人はそういうふうに判断できる。
いまとなっては、ドラッグをロックミュージックと融合させたのは「より暴力的に見せるためのがんばり」にしか見えない。あのころの若者は、みんな、がんばってがんばって、ドラッグに手を出していた。新しい文化である、若者の文化なのだ、という〝ある種の使命〟をもってドラッグを吸引していたようにしかおもえない。
もうひとつの政治的主張と音楽の連動。1960年代は政治の季節でもあった。
公民権運動からベトナム反戦運動へとつづく動きと、若者の音楽は連動していった。
黒人に公民権を。ベトナムに平和を。
スローガンを掲げると反抗する若者となれる。
暴力に屈しない若者は、「ラブ&ピース」の世代として、カウンターカルチャー世代として認識される。
だから若者としてきちんと主張した。
ただ、平和に穏やかに主張しているだけでは、上の世代の共感を呼んでこちら側に招き込んでしまう。
だから「破壊的な平和運動」を繰り広げざるをえなかった。
これが、この世代のこんがらがった部分である。
破壊的というのは、べつだん暴力的で革命を目指すということではない。
「既存の文化を認めない」という形の破壊である。破壊されるほうは、ただ不愉快になるだけのもの。そういうレベルの反抗である。
キーワードは「自由」。フリーダム。(自由と無料がアメリカでは同じフリーの言葉で表されるので、ただその一点において、ウッドストックやオルタモントは入場無料であることが要求されていたのではないか、とおもわないでもない)。
若者は「自由こそ自分たちの主張だ」と前面に掲げた。
具体的に言えば「長髪とフリーセックス」。
これが破壊行動である。
これまでの世代が作ってきた路線に乗らずに、自分たちの居場所を作ろうとして、ヒッピー文化は「長髪とフリーセックスと自分たちの音楽」を中心に据えた。これによって〝新しい自分たちの文化〟への上の世代の流入を防げる。ロックミュージックが楽しいとおもっても、なかなか大人は長髪にできないし、フリーセックスも認めにくい。
フリーセックス、は、いまでいうところのジェンダーフリー、つまり家庭に縛り付けられた強制的な女性らしさからの解放という政治的な部分もあったはずなのだが、いつのころからか誰とでもセックスする(誰とでもというよりも、結婚相手や交際相手でなくてもフィーリングが合ったらセックスする)という享楽的な部分だけが前面に出てきて(たしかにそちらのほうが耳目を引くから)、ヒッピー文化の象徴のように扱われた。映画『ウッドストック・愛と平和と音楽の三日間』でも、若者へのインタビューからなるたけそういう思想を聞きだそうとしているところがある。
長髪姿で、セックス、自由、と叫ぶだけで、当時の上の世代は心底、驚いたのである。
ラブ&ピースの若者たちは穏やかそうに見えて、でもきちんと破壊行動を取っていた。見方を変えれば、暴力的であった、ということになる。
ただ、ベトナム反戦運動でも、すべての世代を巻き込もうとしていたわけではなかった。自分たちの問題としてすませようとした。(戦争に行くのはおれたちの世代だから、という気分が基調にあったからだとおもう)。
私たちのベトナム反戦運動、というものを展開していた。かれらにとって、反戦であろうとラブ&ピースだろうとヒッピー文化であろうと「自分たちの世代だけが理解出来るカウンターカルチャー」として生み出されたものであり、自分たちだけの世代でそれを守ろうとしていた。
カウンターカルチャーというのは、言い方を換えれば「それまでの大人が許さない行動様式を取ること」を示している。やっている当人たちは楽しいし、たしかに破壊行動ではあるのだが、残念ながら「もとの強固な文化」というものが存在しないと、カウンターカルチャーじたいが出現できない。
カウンターカルチャーの脆弱な部分はここにすべて集約されている。
ぶつかる壁がないと、そもそも文化となりえない。何もない地平に文化をうちたてる作業とはちがう。大人が怒らなければ、ただのぐだぐだの自己主張でしかないのだ。
それがカウンターカルチャーである。
ただ、このときの大人はきちんと怒ってくれた。相手をしてくれたわけである。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。