貴族たちの打算的な「接待男色」 頼朝はお稚児さんだった!?【後編】

頼朝にはお稚児さんとして後白河法皇に仕えていた過去があった!? 稚児として滅びゆく貴族世界を見、鎌倉殿として全国の武士団を率いた頼朝。30年の時を経て後白河法皇と再会した時、二人の間に去来した思いとは。
劉邦の宦官』や『九度山秘録』で話題の、新進気鋭の歴史小説家・黒澤はゆまが、歴史のなかの美少年を追って世界中を飛び回る人気コラム!

愛人たちを冷たく見捨てる後白河

平治の乱。

平氏の栄達の直接のきっかけとなったこの事件は、後白河法皇の寵臣、藤原信頼が右近衛大将への昇進を望んだところ信西によって妨害され、それを恨んだ信頼が源義朝をそそのかし、信西を排除し政権の主導権を握ろうと起こした事件。一般にはそう理解されています。

義朝も保元の乱後、父・為義をはじめとする血族を自分の手で切るよう信西に命じられたり、彼の息子を婿に望んだところ「武士風情に娘をやるつもりはない」などと言われたりしていたので、いわば冷や飯食いが結託してのクーデターという解釈です。

しかし、中世史家の河内祥輔さんは、まったく違う説を唱えておられます。 「信西の暗殺は藤原信頼・源義朝の独断でなく、後白河上皇の主導によっておこなわれたことである」 これは『保元物語』や『平治物語』といった軍記物ではなく、同時代の日記などの一次史料、後世の信ぴょう性の高い編纂物などをもとに綿密な再調査を行って、導き出された新説です。

実は、後白河上皇は二条天皇の跡継ぎに自分の次男、後の後鳥羽上皇をつけたかったのですが、その時、鳥羽法皇の方針を尊重して二条天皇の子供が出来るまで待つべきと主張するであろう、信西が邪魔になっていたのです。

また、母・待賢門院の美貌が衰えたあと、父の寵愛を独占した美福門院と図って、自分を無理やり譲位させたのも面白くないことでした。

信頼・義朝に屋敷を襲撃された信西は逃亡する直前、後白河上皇に信頼の反乱を告げようとしたのですが、上皇は管弦の遊びに夢中で面会はかないませんでした。一般に極楽トンボの後白河上皇の暢気なふるまいと解釈されているこの行動ですが、実は政治的韜晦というもので、上皇はこうすることで信頼・義朝と自分とのつながりはぼかしつつ、信西を切り捨てたのです。

頼長を破り、剛腹な政治家として名を馳せていた信西も、しょせん貴族でしかなかったようです。クーデターの黒幕が誰かを悟ると絶望し、宇治田原の志加良木山まで逃げ延びながら、再起は期さず、部下に大きな穴を掘らせると、その中に自ら入り念仏を唱えながら即身仏になろうとしました。

しかし、密告者が出て、信頼方の追手があたりを嗅ぎまわっているのを知ると、胸を刀で突いて絶命します。その遺体は掘り起こされ、首を切られたうえ、都大路にさらされました。4年前の保元の乱で、かつての親友、藤原頼長の死体を暴いて解剖した報いを受けたと言っていいでしょう。

しかし、このクーデターは信西を殺害するところまではうまく行ったものの、熊野詣でから帰ってきた清盛がたった十五騎で勇を振るって入京してくると情勢は一変します。

最晩年の所業から、悪逆無道の印象のある清盛ですが、実際は温厚篤実な人物でバランス感覚に優れた人でした。慈円などはその著書『「愚管抄』」のなかで「アナタコナタシケルニコソ」あちらとこちら両方に上手に取り入られる人と評しています。

後白河上皇の突飛な行動に驚くとともに不快感を抱いた感じたのでしょう。一度は信頼に名簿を差し出し、恭順する態を見せたのですが、二条天皇をはじめ公卿たちが、信頼・義朝と、大っぴらには言わないが、上皇に対して強い反発心を抱いている朝廷の空気を敏感に読むと、幽閉されている二条天皇を女装させて脱出させ、自らの本拠、六波羅にかくまいました。

錦の御旗を奪われたわけで、公卿大官たちはこぞって二条天皇いる六波羅に向かいました。一方、黒幕の後白河上皇は、内裏にほど近い一本御書所にいたのですが、そのまま捨て置かれました。

清盛は上皇に使者を送り「二条天皇は脱出しましたよ」と告げています。要は「あんたが黒幕だということは分かっている。勝負はついたから落とし前をどうつけるか自分で決めろ」とプレッシャーをかけたのですね。

これに対し後白河上皇はその人生のなかで、この後も繰り返し繰り返し行うことをします。つまり、信頼・義朝をさっさと切り捨てると、「いやー、朕も軟禁されて大変だったぞ」と素知らぬ顔で仁和寺に移ったのです。

清盛は内心苦りきったでしょうが、こちらもなかなかの役者で「はいはい、そうですか。さぞかし、怖い目にあったことでしょう。でも、この清盛のもとに来た以上は叛臣たちには手を出させませんから」と調子をあわせてやりました。

馬鹿を見たのは信頼と義朝です。

法皇と天皇を失った彼らに味方するものはほとんどおらず、朝敵として一方的に攻撃されることになりました。軍記ものでボロカスに書かれるほど信頼も馬鹿ものだったわけではないのですが、戦闘で貴族が役に立つはずもなく落馬して鼻血を出す始末。それでも、義朝は息子義平、そしてこの戦いが初陣だった鬼武者とともに奮戦したのですが、衆寡敵せず壊滅、散り散りになって関東に落ち延びることになりました。

その後の顛末は皆さんもよくご存じのとおり。

信頼は上皇の愛人だったので、仁和寺に命乞いに行きましたが見捨てられ、平家の追手に絡めとられた後、六条河原で見苦しく喚き散らしながら首を押し切られました。この時、首実検をしたのが、平重盛だったので、後白河法皇の愛人が見守るなか、別の愛人が殺されたということになります。

義朝も本拠の関東へ落ち延びる途中、尾張の長田父子の裏切りにあって、風呂場で赤裸のまま首を討たれました。一騎当千の武勇を発揮することも出来ず、「せめて木刀の一太刀でもあれば」と悔しがりながらの哀れな最後でした。

一方、鬼武者はというと、父とともに落ち延びる途中、若年ゆえに眠りこけ、関ヶ原のあたりではぐれてしまいました。そしてさまよっているところを、平家方の追手に捕らえられ、六波羅の清盛の前に引き据えられました。

まだ数えで13歳の幼さでしたが、一応元服しているので、打ち首になってもおかしくありません。しかし、清盛はこの少年の命を助けました。巷間よく知られている義母の池禅尼の命乞いだけでなく、上西門院、そして後白河上皇からの助命嘆願があったためでしょう。

いや、この乱の真相を誰よりもよく知る清盛は、同じ武士として義朝の境遇、そして少年の悲痛な運命に痛く同情するところがあったのかもしれません。彼はその後、後白河法皇からその軍事力と財力を体よく使われ、武士の悲哀をたっぷり味わうことになるのです。

貴族と武士の男色の違い
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コメント

skbluegreen こんなにBL的には美味しい時代なのに漫画とかにならないのは、なにか理由が? あー、表面的な接待男色じゃ美しい物語にならないもんなぁ。 4年弱前 replyretweetfavorite

skbluegreen 平安末期、こんなに男色ネタ満載なんだから、漫画か乙女ゲーになってもいいのに。ていうかしてくれ。似た名前が多すぎて文字では区別できないのよ。ビジュアルが必要!![ 4年弱前 replyretweetfavorite

skbluegreen 平安貴族の政治関係≒「接待男色」www 枕営業と同じか!?(笑) 4年弱前 replyretweetfavorite

hayumakurosawa cakes記事更新しました!!今回で頼朝編もラスト。貴族政治の矛盾、退廃を人格化したような存在だった後白河。その稚児だった頼朝が30年ぶりに再会したときに行った復讐とは!? 貴族の男色の特徴にも注目! https://t.co/gOEOwNvlvE 4年弱前 replyretweetfavorite