「いやあ、今日は眠たくって仕方ないよ。昨日夜遅くまでメールのやりとりをしていたからさ。ほとんど眠れなくってね」
そう言うヤオイタさんは、派手な黄色のネクタイをしていた。この人はいつも高級なスーツを身につけ、いくつもの眼鏡を使い分け、身だしなみに気を遣っている。徒歩組だから、僕と同じように、客先を回るだけでもへとへとになるはずなのに、よく毎日こう整えていられるものだ。
「おれは寝たかったんだけれど、相手がなかなかメールをやめようとしないから。まったく、困っちゃったよ。しつこくってさあ」
ヤオイタさんは自分で言って、自分で笑う。その声が、朝の静かな部屋に響いた。
エレベーターを降りた左手のスペースには空気清浄機が設置され、喫煙所として利用されており、朝と夜にはいつも数人が集まって煙草をふかしている。今も、始業前の一服をすべく、社員たちが集まって気怠い雑談をしていた。
僕も眠い目を擦りながら、自分の煙草をくわえている。
「メールなんか、誰としてたのさ」
アラガキさんが、尋ねて欲しそうなヤオイタさんの態度を察してか、面倒そうにしながらも言った。
「こないだ一緒に行ったお店の女の子だよ。覚えてるかい? 新宿の、あのオレンジのドレスを着てた子」
「覚えてないな」
「ほら、二十歳って言ってた、一番可愛かった子だよ。店ではナンバーに入ってるんだって自慢してたじゃない。そんな人気があるような子が、しつこくメールして来るなんて、営業にしたって、熱心なものだねえ。おれは何度も寝たいって言ったんだけどさ。相手がそのたんびにちょっとだけ話したいって言うから」
「それは凄いですねえ。そういう場所って行ったことがないんですが、そんなこともあるものなんですね」
ミタ君が素直に感心したような声をあげる。
「いやあ、何をあんなに気に入ってくれたんだろうねえ。今日の夜もまたメールするって言ってたし、あまり営業熱心なのも困っちゃうな。あははは」
「楽しそうでいいなあ。おれなんか、最近は全然いいことなんかなくなっちゃったよ。何かあればいいんだけれどねえ」
キサラギさんはそう言って、ため息をつく。
「だったら、今度キサラギさんも一緒にその子の店に遊びに行こうよ。アラガキさんと三人でさ」
「そうかなあ。つれて行ってくれるって言うなら、行こうかなあ。でも、あまり金を遣いたくないんだよなあ」
「たまにはいいじゃない。キサラギさんも嫌いな方じゃないでしょう?」
「そうだけど、どうしようかなあ。ナベヤマ君も行く?」
『ナベヤマ』というのは、マトバさんがつけて、会社で普及した僕のニックネームだ。顔が似ているというタレントの名前を二度もじったものだが、すでに原型を失ってしまっている。
「それは面白そうですね。機会があれば、行きますよ。行ったことないですし」
「水屋口さんはそんなところに行っちゃだめですよ。真赤ちゃんが怒りますよ。だからキサラギさん、代わりにおれが行きましょうか?」
「いや、ミタ君は来なくて良いよ。きみが来ると女の子はみんなそっち行っちゃうから、面白くない」
ヤオイタさんはわざとらしく顔を顰めた。
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