一故人

蜷川幸雄—子連れ演出家が娘に伝えたこと

演出家として国内外で大活躍をし、日本の演劇を牽引し続けた蜷川幸雄。演劇の世界以外からも、その死を惜しむ声は多く寄せられました。幾多の伝説を有し、我が道を歩み続けた人物は、いかに自己を形成し、そして何を遺したのでしょうか?

娘が生まれて「主夫」になる

演出家の蜷川幸雄(2016年5月12日没、80歳)が愛読したコミックに、小池一夫原作・小島 剛夕 ごうせき 作画による『子連れ狼』がある。同作は、柳生一族の陰謀で妻を殺された主人公・ 拝一刀 おがみいっとう が復讐を誓い、幼い息子の大五郎を箱車に乗せて連れながら刺客の旅を続けるという時代物だ。

蜷川がこの作品の存在を知ったのは、俳優の若山富三郎から教えられてだった。蜷川が若山と親しくなったのは1970年前後、まだ演出家として駆け出しのころだ。若山はよく自分の考えた映画のストーリーを話してくれたという。『子連れ狼』の話もそのなかで出てきた。若山は「小池一夫というのはすごい才能だぞ」と熱っぽく語り、今度これを映画にすると言う。その後も蜷川と会うたびに小池一夫の才能について語った若山は、あるとき一緒にいた蜷川の妻で女優だった真山知子(現在はパッチワーク・キルト作家の蜷川宏子)に、自分の映画に出演するよう言った(蜷川幸雄『蜷川幸雄の子連れ狼 伝説』)。

こうして1972年1月、若山が拝一刀に扮して『子連れ狼 子を貸し腕貸したてまつる』が公開され、真山はその劇中で激烈なヌードシーンを披露した。映画はシリーズ化され、1974年までに若山主演で6作が撮られている。

映画『子連れ狼』撮影前後の1971年秋、真山は蜷川に100万円貯めた預金通帳を見せている。それは夫婦でネパールに行くために貯めた金だったが、妻は「ネパールにするか、子供をつくるか選んで」と夫に迫った。演出家として自分の才能に疑問を抱いていた蜷川は、子供の分まで責任を持つのは無理だと、それまで子供はいらないと拒んでいた。しかし妻から言われてついに観念したという。この1年後、長女が生まれる。現在、写真家・映画監督として活躍する蜷川実花だ。

真山は出産して4カ月後には女優に復帰した。一方、夫の蜷川はこのころ小劇場演劇から大劇場での商業演劇に進出したものの、演出料は40~50万円で、それが年に1~2本ほど。収入は妻のほうがあきらかに多く、合理的に考えれば彼女が働いたほうがよかった。それに、仕事から帰ってくる真山は、家事をしているときよりイキイキしていたという。そこで蜷川はある日、彼女を鏡の前に連れて行くと「君、仕事から帰ってきたほうが女として魅力的だろ? そう思わないかね?」と切り出した。「時間のある俺が実花の面倒をみるから、君は仕事をしろ」。こうして蜷川は育児と家事を一手に担う「主夫」となった。この分担は1978年に次女が生まれ、真山と育児役を交代するまで続く。

蜷川は『スポック博士の育児書』や松田道雄の『育児の百科』に書かれていることを忠実にやろうとするがあまり、「たんすの上の物が実花の上に落ちてきたら大変だ」などと心配し、育児ノイローゼになるほどだったという。娘が母乳を求めて、蜷川の胸を触りながら「ママ」と泣くこともあった。これに彼は、母と子の結びつきはこんなに強いのかと実感したという。身をもって知った生物的な感覚は、のちにギリシャ悲劇で母子の関係を演出したときに役立つことになる(蜷川幸雄『演劇の力』)。

娘の実花によれば、幼いころに父から口笛をかっこよく吹く方法と、食べ歩きの楽しさを教えてもらったことをよく覚えているという。外へ出かけるのが好きで、新宿中央公園や上野の博物館に連れて行ってもらったのもいい思い出だとか(『婦人公論』2002年5月22日号)。

蜷川は稽古場や会議の場にもよく娘を連れて行った。まさに子連れ狼そのものだ。もっとも、打ち合わせ中におむつ替えやら離乳食の時間やらでしょっちゅう席を外すので、舞台美術の朝倉摂によく叱られたらしい。そんなふうに父の仕事場に連れて行かれたことも実花はよく覚えている。

《父が舞台を演出していた日生劇場や帝国劇場にもよく行きました。日劇の赤いカーテンや絨毯は、子供時代の心象風景として今も心に残っていますし、赤い階段は私の遊び場でした。帝劇の監視室[原文ママ。正しくは監事室]でガラス越しに父の舞台を見ながら、室内の手すりを鉄棒にして逆上がりの練習をしたこともありましたね(笑)》(『婦人公論』前掲号)

父と娘がともに強く記憶していることが、もうひとつある。それは実花が5歳のとき、父と一緒に出演したテレビ番組でのこと。

《ビデオテープが残っているから覚えているんですけれど、私と父が新宿の雑踏の中に立っていました。目の前の道がふたつに分かれていて、一方は大勢の人通り、もう一方は人が全然通っていない。そこで父親から「みんなが右に行っているでしょ。でも、君が左に行きたいと思ったら、ひとりでも行ける人間になるんだよ」と言われたんです》(蜷川実花『蜷川実花になるまで』

蜷川の口にしたその言葉は、マルクスが『資本論』の序に引いたダンテの『神曲』の一節「 なんじ の道を歩め。そして、人々をしてその語るに任せよ」がもとになっている。蜷川はこの一節を心の支えにしてきたという。彼の生涯はまさしく、ときに孤立しながらも我が道を歩み続けた80年だった。ここであらためて振り返ってみよう。

「灰皿を投げる」伝説はどうして生まれた?

蜷川幸雄は1935年10月、埼玉県川口市に生まれた。その青年時代は挫折の連続だった。成績優秀で東京の名門私立の開成中学・高校に進むも、高1のときに落第している。さらに画家を志して東京藝術大学を受験したものの失敗。それなら、やはり好きだった演劇の道に進んで俳優になろうと、20歳で劇団「青俳」に入った。

俳優になったものの、しだいに自分は大した俳優ではないと思うようになった蜷川は、30歳をすぎたころに演出家への転身を決意する。しかし、それはかなり無謀なことだった。何しろ当時の新劇の各劇団では、宇野重吉や滝沢修など名優がたいてい演出家を兼ねていた。劇団に演出をさせてほしいと申し出ても、名優じゃないと誰もついてこないよと、にべもない。劇団の後輩だった妻の真山知子からは、「演出家の勉強なんてやったことないじゃない」と驚かれたという。

蜷川は、盟友である劇作家の清水邦夫に書いてもらった戯曲『真情あふるる軽薄さ』をぜひ自分の演出で上演したいと、劇団と掛け合ったが、認められなかった。これをきっかけに1968年、真山のほか先輩の岡田英次、後輩の石橋蓮司や蟹江敬三らとともに青俳を脱退し、劇団「現代人劇場」を結成する。『真情あふるる軽薄さ』は翌年、アートシアター新宿文化で初演され、これが蜷川の本格的な演出家デビューとなった。

このあと1971年に現代人劇場を解散、いったんは俳優に戻ったが、翌年の連合赤軍事件に衝撃を受けて、新たに劇団「櫻社」を旗揚げする。しかし73年にはそれまで拠点としていた新宿からの撤退を宣言、同劇団は活動休止に入った。それからまもなくして、蜷川は東宝から日生劇場での『ロミオとジュリエット』(主演は市川染五郎=現・松本幸四郎と中野良子)の演出を依頼される。いわゆるアングラ演劇から商業演劇へ異例の抜擢だ。

蜷川としては、商業演劇での演出は、自分の劇団に戻ったときのための勉強になると考えており、劇団の仲間にも協力を求めた。しかし、ことごとく断られてしまう。仲間たちにとって商業演劇への進出は裏切りと思われたのだ。櫻社は結局、『ロミオとジュリエット』のあと、1974年8月に解散する。四面楚歌となったこのときの蜷川の心を支えたのが、『神曲』のあの一節だった。

蜷川幸雄といえば、俳優に灰皿を投げるというイメージが一般に定着している。事実、蜷川はかつて稽古中によく灰皿や椅子などを投げていた。それでもけっして俳優に命中させはしなかったという。ぶつけたいのではなく、あくまで心理的な揺さぶりをかけたかったからだ。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

hanamasa0201 蜷川実花さんは、こうやってできてたんだなー 3年以上前 replyretweetfavorite

pipoparo 「みんなが右に行っているでしょ。でも、君が左に行きたいと思ったら、ひとりでも行ける人間になるんだよ」と言われたんです(蜷川実花『蜷川実花になるまで』) 3年以上前 replyretweetfavorite

tarokith256 古川雄輝ツイートこんな時もありました。蜷川さんの記事が気になり読む。https://t.co/ymcZtjc6ZSファンになると古川雄輝が興味あるもの全てに私も興味がわく。 https://t.co/NrwpOlOHOB 3年以上前 replyretweetfavorite

Pizzae_a 読むべき。→ 3年以上前 replyretweetfavorite