第9回 NECのPC8001の開発に焦ったアップルは日本のパートナーとして以外な老舗企業に目をつけた

「ところで、カーターさんは、このショウのためにわざわざ来日したのですか?」
笑みを携えたカーターは、温和な口調で応えます。
「いや、実は、日本における総代理店を探しに来ているんですよ」
「ほう、なるほど。アップルも、日本で人気が出てきましたからね」
「いやいや、状況は逆ですよ。見てください、これだけの会社が参入しはじめているんです。業界のトップシェアを誇っていたアップルも、このままだと日本という大きな市場をみすみす逃しかねない」

日本でも急速に立ち上がりつつあるこのパーソナル・コンピュータ市場に、NECなど大手が参入を表明し始めていました。そんなときに、東レの曽田は、アップルの副社長のカーターさんに偶然、日本のマイクロコンピュータ・ショウで出会います。

登場人物たち

スティーブ・ジョブズ 言わずと知れた、アップルコンピューターの創業者。1976年に創業し、1980年に株式上場して2億ドルの資産を手にした。その後、自分がスカウトしたジョン・スカリーにアップルコンピューターを追放されるが、1996年にアップルに復帰。iMac, iPod, iPhone などの革新的プロダクトを発表しアップルを時価総額世界一の企業にする。

水島敏雄  東京で「ESDラボラトリー」という小さな会社を営む。マイコンの技術を応用し、分析、測定のための理化学機器の開発を行うために作った会社で、ESDという名称は、 Electronics Systems Development の頭文字をとっている。東レの研究員として働いていた時代から大型コンピュータや技術計算用のミニコンに通じており、マイクロコンピュータの動向には早くから注目していた。ESDは日本初のアップルコンピューターの代理店となる。

『スティーブズ』

曽田敦彦 構造不況の中、業績が芳しくない東レが、「脱繊維」を掲げ新分野として取り組んできたのが磁気素材の分野だった。ソニーのベータマックス用としてはさらに薄地で耐久性のあるテープ素材の開発が必要で、45歳になる曽田はこのプロジェクトの中心として部下に20名以上の研究員を従えている。地味で根気のいる仕事ではあったが、東レがハイテク新素材メーカーへステップアップする上でこのプロジェクトは重要な意味を持っていた。


1979年5月、大井町の流通卸売りセンターは「マイクロコンピュータショウ」で賑わっていた。ウェストコーストコンピュータフェアからまだ2年しか経過していないが、すでにマイコン産業は、来るべき情報化社会の象徴として、社会の注目を集めはじめている存在となっていた。

東レの研究子会社である東レリサーチセンターの立ち上げに奔走していた曽田が、わざわざこのイベントに足を運んでいたのは、科学分析や測定などといった理化学研究の分野も、もはやデジタル技術を避けては通れない時代になっていたからである。独立採算を目指している新会社にとって、親会社の東レ以外とのビジネスとして、このデジタル分野は実に有望だった。コンピュータを新会社の事業としてどう取り入れてゆくかまだ具体的ではなかったが、その利用のノウハウはどこよりも進んでいると自負していた。すでに東レの研究所は多くのアップルⅡを購入している。こういったコンピュータビジネスに熱い視線が集まっていることは、来場者のほとんどが企業人であることからも容易にうかがえた。

イベント会場内では、マイコン製品が至るところでデモされている。出展者には、国内のみならず海外の企業も多く軒を並べている。時期を前後して、日本電気がPC─8001というパーソナルコンピュータの発表をアナウンスしたことでその注目は高まっていた。

 「Makers Hub」https://makershub.jp/make/826 より引用


会場を訪れていた曽田は、人込みの中に見覚えのある顔を見つけた。アップルで水島や曽田を応対したジーン・カーターである。カーターは人一倍長身であるためにすぐに曽田は気が付いたが、向こうはこちらに一向に気が付かない。曽田は近寄って声をかけた。

「カーターさんじゃないですか。覚えていますか? 曽田です」

「おお、曽田さん、これは奇遇です。お元気ですか」

「ええ元気です。まさか日本にいらしていたとは知りませんでした」

アップルの中では飛び抜けて年長のカーターは、社内外からは人格者として知られている。混乱の多いアップルの中において、曽田も温和で冷静なカーターには信頼を寄せていた。

2人は偶然の再会を称えあうと、あらためて名刺を差し出した。カーターの差し出した名刺の肩書は、副社長となっていた。

カーターは曽田の差し出した名刺を見て怪訝そうな表情をみせた。

「曽田さんは、水島さんの会社から移ったのですか?」

とっさに曽田は、かつての訪問のときに、自分の立場がはっきりと伝わっていないことに気が付いた。

「いや、私は最初から東レの人間なのです。友人として、水島の会社を手伝っていたのです」

「ほう、そうだったのですか」

合点のいかない表情のカーターに、曽田は水島の関係を時間をかけて説明した。

「ところで、カーターさんは、このショウのためにわざわざ来日したのですか?」

笑みを携えたカーターは、温和な口調で応えた。

「いや、実は、日本における総代理店を探しに来ているんですよ」

「ほう、なるほど。アップルも、日本で人気が出てきましたからね」

「いやいや、状況は逆ですよ。見てください、これだけの会社が参入しはじめているんです。業界のトップシェアを誇っていたアップルも、このままだと日本という大きな市場をみすみす逃しかねない」

営業面をすべて取り仕切る立場にある自分が、米国内の需要に対応するだけで手一杯だった経緯をカーターはゆっくりと説明した。

アップル社で営業部門を取り仕切るカーターは、爆発的な勢いで送られてくるアップルⅡの注文の処理に追われていた。シリコンバレーと呼ばれるようになった一帯の企業すべてが、いや、それ以外の多くのアメリカ企業までが、マイクロチップを巡ってお祭り騒ぎのようになりはじめていた。無限の可能性を持つといわれるこの半導体産業こそが、ベトナム戦争で消耗したアメリカ経済再起の金の卵と誰もが期待を寄せている。アップルⅡの出荷は、ヨーロッパ市場やカナダ市場でも、アメリカの後を追うように伸びはじめている。一方アジアはというと、沈黙したままである。日本の潜在需要が大きいことは明らかだが、いざ独特の文字文化や商慣習を持つ日本にどう切り込んでいったらいいか、まるで無策だった。なんといっても始まったばかりのこのベンチャー企業では、海外はおろか、国内のマーケットに対処するだけの体制すらできていないのだ。無論社員の増員にも力を入れているものの、組織づくりは一朝一夕にいくものではない。たった2人の若者によって創業されたアップル社の社員数はもはや100名を超えていたが、未来を見定めている者はカーター以外皆無である。すべての資源が、アップルの成長についていけていないのが実情だった。

カーターは為替や慣習といった敷居の高い海外市場に手を出す前に、まず国内を優先すべきと判断していた。そのためには、日本に有力なパートナーを持ち、できるかぎりの市場の確保をする、そしてアップル本社の体制が整った時点で、本格的な直接参入をするのが適切と考えていた。

「それで成果のほどは? よいパートナーは見つかったのですか?」

「いや、なかなか難航しています。NECもこの市場に本格的に参入するとアナウンスしましたし、自社でコンピュータ市場参入を予定していない企業を探すのは容易ではないですね。我々としてはこういった大手メーカーに太刀打ちできる規模の企業と何とか出会いたいのですが」

カーターの口調から推するに、アップル社は、ESDを総代理店の候補とはまるで考えていないようである。曽田の脳裏をふと水島の顔がよぎった。しばらく会っていないが、彼の耳にこの件は入っているのだろうか……。

15分ほど話し、カーターがそろそろといったジェスチャーをすると、曽田はとっさに自分の名刺を指しながら言った。

「私の会社である東レリサーチセンターでお役に立てそうでしたら、ぜひお声をかけてください。東レの子会社として、ハイテク分野を専門的に担当してゆきます。私も水島と同じくらいアップルには通じていますから」

「ほう……」

カーターは、少し意外そうに、名刺に目をやった。会話を終え、カーターが人込みの中に消えてゆく姿を目で追いながら、曽田はカーターの口から出た「マスターディストリビューター(総代理店)」という言葉を何度も繰り返した。

カーターとの偶然の再会から1カ月間、曽田の頭からこの件が離れたことはなかった。もしどこかの日本企業との提携が進んでいるのであれば、必ずやその噂は伝わってくるはずである。だが、水島を含めて、誰の口からもそういった噂は聞こえてくることはなかった。かっきり1カ月を待って、曽田は初めて自分の上司である、東レリサーチセンター取締役山田耕一にこの話を伝えた。そして、東レリサーチセンターが候補になり得るか否かを打診する許可を得た。やるとなったら急ぐ必要がある。海外とのやりとりは緊急の場合、テレックスで行うのが一般的だ。しかし友人関係で、いきなり商売を切り出すのは関係を壊してしまいそうでなんとも気が引ける。曽田は自分の気持ちを手紙にしたため郵便で送ることにした。

アップルの国際マーケティングを取り仕切る担当マネージャーと名乗る男から返事の手紙が届いたのは、それからわずか2週間後の6月中旬のことだった。ジーン・カーターの部下で名をスティーブ・シャンクといった。この手紙の主は、早急に来日し、総代理店契約の可能性について打ち合わせたいという。曽田たちにはなんとも嬉しい手紙だった。


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再び、かつてベンチャーだったアップルの製品に胸をときめかしていたあの時代の空気感を若い世代に伝えたい!!

この連載について

初回を読む
林檎の樹の下で -アップルコンピュータジャパン物語- ✕スティーブズ外伝

うめ(小沢高広・妹尾朝子) /斎藤 由多加

ふたりのスティーブ、ジョブズとウォズニアックが設立したアップルコンピューターは、1977年4月、サンフランシスコで開催されたウェストコーストコンピュータフェアに出展した。ジョブズがこだわりにこだわったベージュ色の本体の数が足りないので...もっと読む

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