先輩のくれた大事な言葉。
父との唯一の会話は『お金』の話だった。教材費が必要だとか、弁当代だとか、仕事から帰ってきて寝ている父を起こしていた。そのうち寝ている父を起こすのが嫌になり、高校では禁止されていたアルバイトを始めた。
アルバイトを始め、職場での人との出会いで寂しさを紛らわせるようになった。私は、アルバイト先にようやく自分の居場所を見つけた。そして、家より高校より、アルバイトが楽しくなっていった。
アルバイトの時間が増えると、勉強をする時間が減っていく。ついには授業さえまともには受けないようになり、成績が上がることはなかった。大学進学を勧める父への反発から、大学へは進学をしないと勝手に決め、父にも高校にも相談せずに就職先を決めた。
東京のレストランに就職した私は、先輩たちに恵まれた。東京での生活も目新しく、楽しい日々をすごした。ある日、先輩に日ごろの感謝を伝えると、先輩はこう言った。
私があなたにしてあげたことをありがたいと思って、
恩返ししてくれる気持ちがあるのなら、
あなたの後輩に同じようにしてくれることが
私に対する恩返しだから。
この言葉は、私の人生にとって、子育てにとって、重要な意味を持つ言葉になった。
私も水商売の世界へ。
東京での生活が1年経ったころ、高校生のときに出入りしていた飲食店のオーナーから、「新しい仕事を手伝ってほしい」
と、声をかけられた私は、通った高校のある街へと移り住んだ。ところが、東京で働いたレストランの先輩たちと新しい職場の先輩たちを比べてしまい、新しい職場の先輩たちとギクシャクした関係になっていった。私はこのとき、大きな決断をした。
「いずれ自分の飲食店を経営したい」と考えていた私は、水商売とはいえ、10年以上飲食店を経営している父を利用しようと思い、父のお店で働き始めた。これまでのことを振り返り、どうしても『親』として認めることができず、経営者と従業員という立場を貫こうと決めた。
父を「父さん」とか「オヤジ」などではなく、『社長』と呼び、会話は今でも敬語だ。本当の関係を知らない他人が見たら、親子とは考えにくいはずだ。だが、残念なことにだんだんと見た目は似てきてしまっている。
父は、水商売からの脱却を目指していたのだろう。居酒屋などの飲食店をはじめ、広告業や宅配事業など、いろいろな分野の経営を手掛けた。すべての新しい仕事に対応させられたのが私だった。新規参入のため従業員も少なく、私も未経験。ほとんどの事業がうまくいかなかった。さらに資金繰りも悪化し、父とことあるごとに衝突し、私は父の仕事を手伝うことを辞めた。
そこで、友人の親から資金を借り入れ、妻と一緒にお店を始め、「マスター」となった。24歳のときだった。応援してくれる人、静観する人、それから足を引っ張ろうとする人、いろいろな人がいた。他人のありがたさと冷たさの現実を実感したときでもあった。
「自分はいつでも応援できる人でいたい」と心に決めた。
従業員の女の子が集まらず、なかなか思い通りにならなかったお店は、半年も経つと妻の努力のおかげで女の子も集まり、忙しくなった。女の子が増えると、悩みも増えた。地域柄か、水商売をする女の子たちは、よく言えば個性豊か。それぞれがそれぞれの価値観と考えを持って働いている。
一言で言うと、「こうしてほしい」という要望が理解してもらえない。伝わっているのかさえわからない。しばらくして、あることに気がついた。私が当然知っていると思って話していることを、女の子たちは知ってはいないのだ。
女の子たちは、それまでの経験から、「わからないと怒られる」「わからないことは悪いこと」と感じていた。それに気づいた私は、女の子たちに話をするときには、できるだけ具体的にわかりやすく話をするように心がけた。そう、小さな子供と話すように。
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