登場人物たち
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スティーブ・ジョブズ 言わずと知れた、アップルコンピューターの創業者。1976年に創業し、1980年に株式上場して2億ドルの資産を手にした。その後、自分がスカウトしたジョン・スカリーにアップルコンピューターを追放されるが、1996年にアップルに復帰。iMac, iPod, iPhone などの革新的プロダクトを発表しアップルを時価総額世界一の企業にする。
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水島敏雄 東京で「ESDラボラトリー」という小さな会社を営む。マイコンの技術を応用し、分析、測定のための理化学機器の開発を行うために作った会社で、ESDという名称は、 Electronics Systems Development の頭文字をとっている。東レの研究員として働いていた時代から大型コンピュータや技術計算用のミニコンに通じており、マイクロコンピュータの動向には早くから注目していた。ESDは日本初のアップルコンピューターの代理店となる。 |
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曽田敦彦 構造不況の中、業績が芳しくない東レが、「脱繊維」を掲げ新分野として取り組んできたのが磁気素材の分野だった。ソニーのベータマックス用としてはさらに薄地で耐久性のあるテープ素材の開発が必要で、45歳になる曽田はこのプロジェクトの中心として部下に20名以上の研究員を従えている。地味で根気のいる仕事ではあったが、東レがハイテク新素材メーカーへステップアップする上でこのプロジェクトは重要な意味を持っていた。
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社員やアルバイトが増えたESDは、すでに本郷のマンションから東大正門前にあるオフィスビルに移転していた。ショップにアップルⅡを卸す他に、以前から借りていた秋葉原のビルの一角にあるオフィスは昭和通り沿いのビルに移転し、「コンピュータ ラブ(Computer Lab)」という名のショールームとしてオープンした。円高、関税の引き下げという情勢の変化において、頑なに水島は価格を下げることをしなかった。利益を削るよりもサポートとメンテナンス体制の確立を優先するというのは、エンジニアとしての発想だったが、それ以上に「いいものは安くする必要などない」という彼特有の美学がそこには現れていた。
社員の増えたESDは、米国から伝わってくる周辺機器やソフトの情報、製品の評価などをまとめて、アップルユーザー向けの雑誌として出版をも始めた。『イーエスディー・ラブレター(Lab Letters)』というこの雑誌は、若き社員自らの手によって執筆編集されたもので、手書きや和文タイプ打ちの誌面で構成されたものだった。他社の広告などは入っておらず、店頭などでユーザーに直接販売するものだったが、ユーザーの間では、日本語で書かれた唯一の情報誌として重宝された。
1978年中盤になる頃にはESDは、湯島の近くにさらに別のビルを3フロア借りることにした。社員が50名を越え、急速な拡大にその作業場が追いつかなくなったのである。3フロアのうちの1フロアは、ショールームとして公開していた。アップル製品以外にも当時米国マイコンの御三家といわれたタンディーのTRS─80やコモドールのPETといったマニア垂涎の機種が置かれいつもマニアたちで賑わっていたが、ここでも人気の的はアップルⅡだった。一般の認知度はまだ高くはないが、米国では、アップル本社は1977年に7000台以上のアップルⅡを出荷し、倍々ゲームの成長を遂げはめていた。そんなアップル社の急成長ぶりは、日本にも伝わって来ていた。
78年下旬になると、アップルⅡ用に、それまでのカセットテープに代わる新しい製品が発表された。低価格のフロッピーディスクドライブである。 もともとフロッピーディスクドライブは、高価で大型な機器だった。アップル社の創業者でアップルⅡの製作者でもあるスティーブ・ウォズニアックは、大型機用のドライブの設計図を見ているうちに、使われている集積回路がたった6個で足りるということに気付き、このフロッピーディスクドライブをアップルⅡ用に改造することを思い立ったという。ハードウェアはソフトによって模倣できる、という発想の転換だった。これこそがコンピュータが他の工業製品と異なる最大の特徴なのだ。このウォズのひらめきが、フロッピーディスクドライブを手のひらに載るサイズにまで小型化したというエピソードは、業界の神話として知れ渡ることとなった。ウォズによるこれらの大手柄はアップルⅡの功績とともに伝説となり、その存在はマニアの間では時代のヒーローとしていつしか神格化されていったのだった。
アップルⅡ本体においても「プログラマーズ・エイド」という名でROMが拡充され、頻繁に使用されるサブルーチンプログラムがあらかじめ入れ込まれた。これによって、プログラマーは汎用的なプログラムを読み出せることができるので、よりプログラムを作りやすい環境ができあがったのだ。アップルⅡは、サードパーティへの門戸をさらに大きく広げ、ソフトウェアラインナップの充実へと好循環していった。ソフトウェアが、逆にアップルⅡの出荷を後押ししていた。
神宮前に、「プレイバッハ」という店がある。表参道と明治通りの交差点から一本入ったところにある、ちょっとばかり洒落たパブである。下町育ちの水島が、どういったわけかこの店をえらく気に入っているのを、曽田は以前から知っていた。水島は、自分で洒落た店を持ちたいのだと密かに語ってくれたこともある。学者肌で、頑固者で通っている水島の別の側面を見たような気がした。学者と芸術家、対照的とも思えるこの2つの存在は、もしかすると同じことを指しているのかもしれない。少なくとも曽田にとって、水島の行動は常にそんなことを思わせた。
年の暮れにはこの「プレイバッハ」で、ESDの幹部による忘年会が開かれることになっている。水島をはじめ、役員・幹部社員、監査役、マイコン雑誌社、そして発起人の曽田を含め9名が参加予定の実にこぢんまりとした忘年会である。
ここのところESDは、実に多くの利益を生んでいた。来年も大幅に、さらに社員数を増やす必要があることが予想された。忘年会の話題の中心は、やはり目玉であるアップル一色だった。アップルの無限の可能性とそしてESDの将来について熱っぽく語る水島の姿があった。あたかもそれは、ESDが、いや水島が、日本におけるアップルの代弁者であるかのようだった。
曽田は彼らの話を聞きながら、ESDのアップル事業立ち上げにおける自分の役割をほぼ終えたことを感じはじめていた。事業はすでに軌道にのりはじめていた。一方、自分はといえば、水島のように道を切り開いて生きてゆくタイプの人間ではない。あくまで自分は大企業の一兵卒なのだ。水島がうらやましくもあるが、これからは、東レリサーチセンターの部長に戻り、そしてあくまで一ユーザーとしてアップルに接していこう、そう思いながら会場を後にした。この年末休みには久々に滋賀に帰ろう。ようやく妻の顔を見ることができる。
年末の街では、ゲームセンターに人だかりができていた。「スペースインベーダー」のブーム到来である。遊戯場にも意外な形でハイテクが入りはじめていたのだ。スペースインベーダーは、攻めてくるエイリアンを打ち落とす、至って単純なゲームだが、しかしいつしかパチンコ産業を不況に陥れたといわれるほどの大きな潮流をつくりはじめていた……。
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