神奈川県・鶴巻温泉「元湯 陣屋」のカレーライス
将棋界の歳時記では、春から初夏にかけては、名人戦七番勝負がおこなわれる季節である。2016年の名人戦は、史上最強と言われる羽生善治名人(45)に対して、いまもっとも勢いのある、新進気鋭の佐藤天彦八段(28)が挑む。まさに、頂上対決にふさわしい組み合わせとなった。第1局で羽生名人が貫禄を示した後、第2局はまさかの大逆転で佐藤八段が勝利を収める。そして第3局は、佐藤八段の完勝。若き挑戦者が先行し、今後の行方にますます目が離せない。そして、毎日のように将棋の対局がネットにおいて中継されるようになった現在、将棋ファンはモニターから目を離す暇がない
さて、重要な対局がおこなわれる前、報道陣は、対局者や関係者への取材、過去のデータなどをもとに、展望記事を書く。
「円熟味を増した羽生名人はどのような作戦を採用するのか?」
「戦形は矢倉か、角換わりか、それとも横歩取りか?」
「佐藤挑戦者の勢いがどこまで通用するのか? 世代交代は成るのか?」
などなど、そういった点を探るのが、まずは定跡(じょうせき)である。
そして、将棋ファンもまた、あれこれと予想をする。でもそれは、盤上のことだけには限らない。
「羽生名人や佐藤天彦八段は何を食べるのだろうか?」
というのも、立派な予想のひとつである。
将棋の公式戦の対局は、長時間に及ぶことが多い。朝から始まった対局が、深夜にまで及ぶことも珍しくない。名人戦などは、2日間にもわたっておこなわれる。その際には、合間に昼食休憩や夕食休憩がはさまれる。対局中には自由に何を食べてもよいし、タイトル戦などであれば、合間におやつを出されることもある。
「天彦さんは第1局から第3局までずっと、2日目の昼にカレーライスを注文している。第3局では地元鹿児島の黒豚カレー。18世名人の森内俊之九段がカレーを連続して採用したように、名人戦ではカレーは縁起がよい。この先もずっとカレーではないか」
「羽生名人はこれまで、対局地の名物の麺類を頼むのが定跡である。たとえば、信州松本でおこなわれた第2局の昼食は海老天ざる蕎麦だった。第3局以降ではどうだろうか」
「名人は第1局1日目のおやつで、抹茶と和菓子のセットに、さらにレモンティを追加しているのは、どういうねらいだろうか?」
「挑戦者のカフェオレは、砂糖多め、またはシロップ多めとあるのが、目を惹く」
以上はたったいま、私の脳内に浮かんだ言葉を書き留めてみたものだ。Twitter上における観る将棋ファン(将棋クラスタと呼ばれる)は、さらに詳細な感想や予想を、熱心に語っている。
天彦先生のカレー連投を見て連想されるのが、冒頭の写真、陣屋のカレーである。神奈川県・鶴巻温泉の「元湯 陣屋」は、戦後すぐ、木村義雄と升田幸三が王将戦を戦って以来、将棋対局の定宿(じょうやど)として、将棋ファン、関係者には知られている。近年、陣屋の対局では昼食に、絶品と評判のカレーライスを出されるのが定跡である。
インターネットが普及し、ウェブ上での将棋中継は、当たり前のものとなった。そこでは盤上だけではなく、盤外の多くの情報が、あっという間に伝えられる。その際に、大きく注目を集めるようになったのは、対局者が何を食べるのか、という点である。
私は2003年から、将棋のネット中継に携わってきた。以後、ネットで情報を伝える側にいる。そこで改めて思うのは「対局者が何を食べたのか」という情報に対する、反響の大きさである。
「将棋の内容は全然わからないけれど、対局者が何を食べているのかだけは、いつも見逃さずにチェックしています」
ネット上のさまざまな将棋ファンから、そんなことを言われるようになった。
自分自身を振り返って、難解きわまりない盤上の模様を、文字で表す力が上がったのかは、いささか心もとない。しかし、食事やおやつを写すカメラマンとしての技量は、少しは向上したようにも思われる。
本連載では古今の、将棋指しと食にまつわるエピソードをたどってみたい。
(第1回 羽生名人は何を食べてきたか1 に続く)