『マチネの終わりに』は紛うことなき恋愛小説。洋子と蒔野の出逢いの偶然性、理屈ではなく互いに惹かれていくさま、分別と情熱の葛藤、蒔野のマネージャーとして献身する女性・早苗の存在……。たくさんの要素が、まるで「いまの時代に、恋愛小説は可能か」という問いに何とか応えようと総動員されている感がある。
いま、恋愛小説や「愛」そのものは、どう成立するのか。それは2010年に刊行した小説『かたちだけの愛』のころから考えてきた問題でもあります。単純な話、これだけ通信機器やインフラが発展してくると、かつて恋愛小説の大きな推進力になっていた「すれ違い」は、極端に起きにくくなりました。通信技術が発展し過ぎたことによる弊害だってあるはずと、僕はおもいます。ある男女が結ばれるかどうかというクラシックなストーリーを、現代という舞台で展開したときに、どう成立し得るかというのは、書く側としても大きな関心事でしたね。
それに、とにかく美しい世界を描きたくて、そのために恋愛というものを扱ったともいえる。「文学的な美」というものが自分のなかでの今作のテーマだったので、恋愛を通じてそのあたりについて描きたかった。文学で恋愛を書くと、とかくちょっと怖ろしいものとか、歪なもの、極端なことになりがちじゃないですか。それはそれでおもしろいんだけど、もっとこう、読んでうっとりするようなものを書きたかったんですよね。
改めていわれてみれば、たしかに『マチネの終わりに』の「うっとり度」は相当に高い。恋愛ストーリーで読者をうっとりさせるために、よけいなものはどしどし削ぎ落としていった感がある。美しく話を展開するためであれば、多少のリアリティは犠牲にしたっていい。
たとえば蒔野のスマホは、作中で少々数奇な運命をたどる。「え、そんなこと重なって起こる?」というような出来事に巻き込まれ、蒔野は一時的に通信が不調となる。それによって、すれ違いが生まれ、現代の恋愛小説が成り立つこととなる。
多少「ベタ」な話を入れ込むことだって厭わない。すべては小説における美を実現するためだから。そんな作者の覚悟と決意を読み取りたくなる。
小説というのはそもそも、詩のように芸術として純化するのが難しい。どこかで世俗的、大衆的なものを引き受けなければいけない面はどうしても出てきます。昔の大家の作品をみても、随所にベタな場面ってあるんですよね。それに、ベタなものをぜんぶ排除すると、高級ないい小説になるかといえば、そうでもない。それはそれで、かっこつけた人工的な感じがしてしまいます。小説においては、どこか泥臭さみたいなものが隠し味にないと、美しい部分も引き立たないんじゃないですかね。
『マチネの終わりに』は恋愛小説であるとともに、芸術家小説でもある。ギタリストである蒔野を主要人物に据えているゆえ、音楽に言及し、音楽の美しさを言葉で表す箇所が頻出する。かつて『葬送』では音楽や絵画を、『かたちだけの愛』ではデザインの世界をつぶさに描写してきた平野さんである。他ジャンルの表現を言葉で書いていくというのは可能なのか。それだけでも大いなる挑戦といえそうだ。
それはやっぱり難しいことです。それだけに、おもしろくて。音楽を言葉で書こうとすると、技術的にも高いものが必要になってくる。あまりにも歌い上げるような書き方でも読者はついていけないので、どこかで客観性を保ちながら高揚感を持たせるようにする。