たとえば、森鴎外『舞姫』や谷崎潤一郎の『細雪』。もっと遡れば、『源氏物語』なんかもそう。日本の文学史をほんの少しひもといてみれば、「ああ、美しい」。ため息を漏らしたくなる作品がたくさんある。
文学の「美しさ」は、いろんな要素で表される。慎重に選び取られたモチーフ。流麗なストーリー展開。繊細かつ丁寧に紡がれた文章、などなど。ともあれ文学者たちは、あの手この手を用いて、美しさを表現せんと試みてきた
そして、いま。新たな美しい小説が、ここに誕生した。平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』。
国際的な舞台で活躍するジャーナリストの洋子と、こちらも世界的評価を得るクラシックギタリスト蒔野の恋愛を軸とする物語だ。ふたりは偶然に出遭い、すぐに惹かれ合う。けれど、愛に障害はつきもの。距離や配慮。ためらい、すれ違い。ぞくぞくと現れる問題に負けることなく、想いは折れず保たれていくのかどうか。
洋子も蒔野も、アラフォーの立派な大人である。為すべき仕事、あるべき生き方を模索しながら、恋愛感情に翻弄されてもがく。彼らの姿を追いかける読者は、知らずふたりの物語に深く、深く入り込んでしまう。
読みはじめてすぐに、かくも小説世界に没入させられる作品も稀だ。なぜだろう。その不思議を知りたいとおもう。真っ先に浮かぶのは、登場する人物たちの実在感や魅力が強くあるということ。とりわけ洋子は、凛としたすてきな女性として小説内に浮かび上がる。
冒頭、登場した洋子はこう描写される。
「やや張った肩に、艶のある黒い髪が、足でも組んでいるかのように掛かっている。鼻筋の通った彫りの深い造りだが、眼窩は浅く、眉はゆったりとした稜線を描いている。二分ほど開き残したかのような大きな目は、少し眦が下がっていて、笑うと、いたずら好きの少年のような潰れ方をした」
「洋子は、そう言って、鼻梁にキュッと小皺を寄せて白い歯を見せた。子供みたいに笑うんだなと、蒔野は思った」
『マチネの終わりに』より
この作品のミューズつまりは美の女神として、至極丁寧に人物造形されている。その濃やかさに心を動かされた旨を平野さんに伝えると、「そこはじつは……」と実状を教えてくれた。
洋子には、モデルにあたるような人がいるんですよね。それが細かな描写につながっている面はあるかもしれません。
それに、時代背景も洋子の人物造形にいくらか影響していますね。このところ、極端に反動的な女性観が盛り返しているじゃないですか。保育園が足りない? だったら女は働かず、子どもを育てることに専念しろ。そんな声が大きく響いていたりするでしょう。この小説は、そういうのを直接批判するようなものじゃないですけど、反動的な女性観とはまったく別の世界で生きている洋子のような女性を魅力的に描くことで、現状への批判に代えている面はありますね。
なるほど、小説は具体的な人物、場面、行動を書いて成立するものだから、意識しさえすれば、いまの世の中への批評・批判も盛り込むことだってできる。単におもしろい話を伝えるに留まらない、おもったよりも大きい器だと再確認させられる。
洋子という人物を生み出すにあたっては、平野さんの頭のなかにもうひとつ、こんなおもいもあったという。
小説を書くときは、つねに難しいテーマに取り組んでいかないとおもしろくない。これまで、人間性の暗部をえぐるようなタイプの小説はいろいろ書いてきたので、逆に、すごく魅力的な人物を描くということをやってみたかった。それはなかなか難しいことなんですよ。読者がうっとりとその世界に浸りきることができる、そんな小説に挑戦してみたのが『マチネの終わりに』でした。
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