レッスン3 抗がん剤開始〜時の流れとともに変わっていく心を知る
秋はとうの昔に終わり、海に近い病院の前の大通りには北風が舞っていた。
がんの化学療法には脱毛、悪心、嘔吐、食欲不振、手足のしびれ、倦怠感などの副作用がある。母の点滴の袋は4つが1セットで、抗がん剤のほかにも、吐き気を和らげる薬、アレルギー反応を防ぐ薬などが、それぞれのタイミングで投与された。
近年では医療の進歩で、薬の種類はもとより、どの薬をいつ投与するかなど細やかな研究が進み、昔に比べると副作用の症状はかなり軽減されているという。とはいえ、つらい治療であることに変わりはない。
それでも母は、「毎週、抗がん剤を打つのが楽しみ」と、強い意欲で治療に臨んだ。
「薬がすごく効いてるのよ。治療の翌日はちょっと元気がないけれど、その次の日からしゃきっと調子がいいの。きっとがんが小さくなってるのよ」
当面の私のミッションは、週に1度の抗がん剤治療に付き添うことだった。前日の夜から鎌倉市にある実家に泊まり、当日の朝、母を連れて電車に乗るという単純作業だが、通勤ラッシュの時間帯とあって、グリーン車でもなかなか席が取れない。そのため何台か見送って、なんとか席を確保する。
都心の駅で降りて、タクシーに乗り換える。こんな簡単なタスクでも、強引で短気な母に付き合うのはそれだけで根性がいる。「急がなくても大丈夫だから」と言い聞かせても、人を押しのけてでも前に出ようとする。
抗がん剤の副作用で手足がしびれているから、いつ転んでもおかしくないのに、階段を我先に駆け下りて、空席めがけて突進する。「病気なんだからじっとしておいて。席は私が取るから」と言っても、聞く耳を持たない。
とはいえ、強引な性格が功を奏して、席を確保するのは私よりうまい。下手をすれば私のぶんまで取ってくれて、「ほら、こっちよ」と誇らしげに手を振ったりする。グリーン券を買っても座れない人が少なくない時間帯なので、私は小声で「すみません」と頭を下げながら席につく。
しかし、母はそんなことは意に介せず、「グリーン車のよいところは、席でのんびり化粧ができることよ」と念入りにアイラインを引いたりしている。ある時、「病院に行くだけだから、化粧なんてしなくてもいいのに」と言ったら、母はコンパクトの鏡から目を離さずに「病気だからこそ、しゃきっとしなきゃ」と言いながら、口元に紅をさしていた。
近年では、通院で抗がん剤治療を行う「外来化学療法」が増え、母の通っている病院でも通院治療の患者さんがほとんどということだった。外来の化学療法室はいつも満杯で、朝7時前に家を出ても、治療が終わるのは午後4時、母が電車に乗るのは帰りのラッシュアワーが始まる頃になる。
本好きの私は、本さえあれば待ち時間はそれほど気にならない。だが、せっかちな母は黙って座っているのが苦手だ。何度か読書を勧めてみたが、数分で飽きてしまう。しかたなく、母のおしゃべりに付き合ったり、一緒にテレビを見たりして、時をやり過ごす。
幸い、治療開始後の数か月で、腫瘍マーカーは着実に下がっていた。が、それと同時に血液自体の数値は確実に悪化した。化学療法は「諸刃の剣」と言われ、がん細胞を減少させるのと同時に、正常な細胞にもダメージを与えるため、免疫力は確実に落ちる。
近年では、がん細胞だけを限定的に攻撃する薬も開発されたというが、母のがんには従来型の抗がん剤が使用されていた。
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