藤沢周平が否定した『吉原御免状』
人の一生には何か隠された意味、あるいは使命のようなものがあるだろうか。理性的に考えるなら、そのような何かが客観的に存在すると想定することは、愚かしい。他方、主観的にはありえる。人は自分の人生の意味を感受しつつ生きているものだからだ。それは普遍的な考え方の傾向でもあり、当たり前の人の生き方でもある。文学の課題となるのはしかし、無理な客観でも凡庸さでもなく、一定数の人々に伝わりうる中間的な何かだ。客観と主観の中間的存在。それは語義矛盾のようだが、人が人生の理解を深めるにつれ、その人の人生を統合する意味が客観と主観の中間的に顕現してくる。隆慶一郎という作家を思うとき、いつもつきまとうのは、彼の作品を通して人生が問いかけてくる意味の不思議さである。
隆慶一郎は、その筆名で捉えるなら時代小説の作家のひとりに過ぎない。没年はかろうじて平成の元年にかかっているが、昭和の作家と見てよい。生年もあと3年で昭和に切り替わる1923年(大正12年)である。同年生まれには『鬼平犯科帳』の著者で有名な時代小説家の池波正太郎がいる。そして池波の没年は隆慶一郎の没年の翌年、平成2年である。二人を同じタイプの作家として並べたくもなるが、作家としての違いは小さくない。池波が直木賞受賞で作家としての地位を固めたのは1960年(昭和35年)の37歳。さらに10年以上も前から劇作家として時代劇作品も書いていたが、作家としてはやや遅いくらいのスタートの部類になる。また池波には学歴といえる学歴もなく、明治時代生まれの劇作家・長谷川伸に師事した。
対して隆慶一郎は東京大学仏文科卒の知的エリートであり、作品が直木賞候補に上がったのは、1986年(昭和61年)、62歳である。作家としてはかなり遅いスタートになる。その直木賞の選考委員には同年生まれの池波正太郎も含まれていた。池波は意図的に無視したわけでもないだろうが評に添える言葉は残していない。他に委員の一人の、昭和2年生まれの時代小説家・藤沢周平はというと、隆慶一郎の候補作に対して否定的な評を残した。「奇説も独断も大いにけっこうだが、作者は一度考証以前の、虚構は細部の真実から成り立つというあたりの平凡な認識に立ちもどってみる必要がありはしないか」というのである。この評は隆慶一郎の支持者には愉快なアイロニーだった。彼の作品の面白さはまさにその欠点そのものにあった。
隆慶一郎が描いた小説の実験性と創造性
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。