一故人

ザハ・ハディド—インタビュアーすら叱り飛ばす絶大な自信

東京オリンピックの新国立競技場をめぐる一件で、日本でも広く知られるようになった建築家ザハ・ハディド。その彼女が急死してから1ヵ月以上が過ぎました。建築も人柄も強烈な個性を持っていた彼女の歩みについて、今回の「一故人」は紹介します。

周囲を混乱させるほどの集中力

イラク出身の建築家、ザハ・ハディドの死(2016年3月31日没、65歳)はあまりに突然だった。

2012年にハディド率いるザハ・ハディド・アーキテクトは、当時招致活動中だった2020年の東京オリンピックのメインスタジアムとなる新国立競技場の国際コンペに参加、そのデザイン案が最優秀賞を獲得した。しかしその後、建築費が当初の予定を大幅に上回ることがわかり、日本政府はハディド案を白紙撤回、新たな条件のもと再コンペが実施された。

再コンペの結果は2015年12月に発表され、建築家の隈研吾と大成建設・梓設計のチームによる案に決まった。だが、この案に対し、ハディド側は当初の自分たちの案との類似を指摘、事業主体の日本スポーツ振興センターに著作権をめぐる交渉を求めていた。訃報が伝えられたのはそれからまもなくだっただけに、驚いた人は多いだろう。

ハディドは1980年代に頭角を現してから亡くなるまで、建築界の台風の目であり続けた。2004年には「建築界のノーベル賞」とも称されるプリツカー賞を女性で初めて受賞した。女性であることは建築の世界で活動するうえでハンディにもなったはずだ。事実、プリツカー賞受賞後にも、《女性がプロとして仕事をするのは、今でも大変難しい。まったくアクセスできない世界が未だにありますから。現実的には、私に対する抵抗は今でもあって、これは活動力の糧にすらなっています》と語っている(ザハ・ハディド、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『ザハ・ハディッドは語る』)。

他方、ハディドには建築家としての倫理観をめぐって批判もつきまとった。たとえば、リビアやアゼルバイジャンなど人権問題を抱える国々でのプロジェクトにかかわったこと、あるいはカタール(2022年のサッカーワールドカップの開催地)のアル・ワクラ・スタジアムの建設で、カタール政府が建設作業員を奴隷のように扱っていたことなど、何かにつけてハディドは非難された。しかし、彼女は言われっぱなしだったわけではない。カタールのスタジアムへの批判に対しては、《私は労働者とは無関係。問題があるなら政府が対処すべきだ。事態が改善されることを望んでいる》と激しく反発している(『ニューズウィーク日本版』2016年4月12日号)。

肝心の作品をめぐる評価も常に賛否が分かれた。ハディドの作品は、幾何学的な造形を特徴とし、ことごとく大胆で先鋭的であったためだ。あるインタビューでは、ハディド建築における曲面の壁について非実用的ではないかといささか揶揄的な質問を受けた。これをハディドは《喧嘩を売ってるんですか? 聞いてください、皆さん、彼は私に喧嘩を売っているんですよ。おそらくあなたは私の建物が嫌いなんでしょう》と一蹴している(Hanno Rauterberg『現代建築家20人が語る いま、建築にできること』)。

こうした鼻っ柱の強さを示す語録には事欠かない。既存の建築の概念から自由になろうとしたハディドの作品は、ややもすれば破壊のイメージとも結びつけられがちだった。そのため「あなたにとって『つくることと』と『壊すこと』は同義なのか」と問われたときには、《『壊す』とか『つくる』とかではなくて…。そういう次元の話ではないのよ。宇宙だってそう。銀河系は爆発して誕生する。爆発が宇宙創造の原点でしょ》と煙に巻いてみせた(岡部明子『ユーロアーキテクツ』)。

鼻っ柱の強さも人一倍なら、そのスピードも人並み外れていたようだ。あるとき、車に同乗したスタッフにあれこれと指示を出していて、「速すぎる。言っていることが書き取れない」と言われたことがあったという。これについて彼女はこう弁解している。

《つまり、そのとき私は全速回転していたのです。(中略)私は集中状態にあると、混乱することなく物ごとがクリアーに見える。言い換えれば、他人を混乱させることはあるかもしれませんが、自分は混乱しないのです》(ザハ・ハディド、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト、前掲書)

他人を混乱させながらも、自分自身はまったくクリアな状態にあるとは、まさに台風の中心が穏やかなのと同じではないか。

バグダッドで育った体験を糧に

ザハ・ハディドは1950年、イラクの首都バグダッドに生まれた。両親が入れた修道院付属学校では修道女に学んだが、《彼女たちが他の何よりも理解させようとしたのは、自らを信じるということでした。少女もまた何かを成し遂げることができると考えるのは当たり前》だったという(Hanno Rauterberg、前掲書)。ハディドの自信はどうやら、幼少期に受けた教育が根源にあるらしい。

イラクでは1958年、王政がクーデターによって倒された。替わって生まれた共和国政権が新たな体制づくりを進めるなか、各国から有名建築家が集まり、バグダッドには近代的な建築が次々と建てられていく。ハディドの通っていた修道院付属学校の向かいには、イタリアの建築家ジオ・ポンティ設計のイラク計画省ビル(1958年)があったし、父親のムハンマド・ハディドは有力な政治家として現代的な住宅プロジェクトに注力していた。そのような環境のなかでハディドは建築家になりたいと思うようになる。

修道院付属学校では修道女たちが科学的な教科を得意としていたこともあり、彼女の関心も数学に向けられた。このとき学んだことが後年の作品の幾何学的な造形へと結びつく。同時に伝統的なアラブ文化との関連も見逃せない。流れるようなカリグラフィー(アラビア文字の書)、あるいはイスラム建築の特色である幾何学パターンや中庭は、ハディド建築に少なからぬ影響を与えた。

ハディドが建築を学んだのは、1972年から5年間在学したイギリス・ロンドンのAAスクール(Architectural Association School of Architecture)である。卒業後も終生ロンドンに拠点を置きながら、ハディドは自身の「アラブ性」にずっと意識的だった。もっとも、アラブ出身であることは、白人男性の独占する建築業界では陰口も叩かれやすかったようだ。英紙『ガーディアン』の2012年のインタビューでは「女性であることは受け入れられたが、アラブ出身であることはまだ問題だ」と語っている。

異なった空間・機能から成る建築を求めて

ヨーロッパ社会におけるアラブ出身者というアイデンティティは、ハディドが自作を説明するうえでよく用いた「社会的複合性」という言葉ともかかわっているような気がしてならない。この語について、ハディドは前掲の『ザハ・ハディッドは語る』のなかで以下のように説明している。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

8000yo "アラブ出身であることは、白人男性の独占する建築業界では陰口も叩かれやすかったようだ。英紙『ガーディアン』の2012年のインタビューでは「女性であることは受け入れられたが、アラブ出身であることはまだ問題だ」" https://t.co/UNfIXRU6U4 約2年前 replyretweetfavorite

8000yo "ザハ・ハディドは1950年、イラクの首都バグダッドに生まれた。両親が入れた修道院付属学校では修道女に学んだが、" "修道院付属学校では修道女たちが科学的な教科を得意としていたこともあり、彼女の関心も数学に向けられた。" https://t.co/UNfIXRU6U4 約2年前 replyretweetfavorite

8000yo "カタールのスタジアムへの批判に対しては、《私は労働者とは無関係。問題があるなら政府が対処すべきだ。事態が改善されることを望んでいる》と激しく反発している(『ニューズウィーク日本版』2016年4月12日号)" https://t.co/UNfIXRU6U4 約2年前 replyretweetfavorite

8000yo [2016年5月6日] |一故人|近藤正高|cakes(ケイクス) https://t.co/UNfIXRU6U4 約2年前 replyretweetfavorite