アントニオ猪木との決別
新日本プロレスが1990年代後半からの低迷期を脱するには、アントニオ猪木との決別が必要だった。言うまでもなくアントニオ猪木は新日本プロレスの創立者であったが、1998年の引退後も会長として、そして新日本の過半数の株を保有するオーナーとして影響力を持ち続けていた。良くも悪くも猪木のひと言によって新日本プロレスは振り回され、社長が交代したり、ビッグマッチのカードが突然変更されたりした。
中邑自身も2004年の11月、本来ならば当時ライバルとして売り出し中だった棚橋弘至との初のシングルマッチが行われるはずだった大阪大会のカードが猪木の意向によって変更させられ、それに明らかに異を唱えたことでリング上で猪木に鉄拳制裁を受けるという屈辱も味わっている。そして猪木の提唱した「ストロングスタイル」という言葉は、新日本プロレスのレスラーたちを見えない鎖で縛り続けた。
2005年、ゲーム会社「ユークス」がアントニオ猪木が保有する新日本プロレスの全株式51.5パーセントを取得し、新日本プロレスを子会社化した。以降、新日本プロレスはゆっくりではあるが猪木の影響力から脱し、経営を健全化し、ファンの失った信頼を取り戻すことになる。棚橋弘至が涙をこぼしながらファンに感謝の言葉を述べ、IWGPヘビー級王座を札幌で戴冠するのはこの翌年のことである。
ところが中邑真輔は突然、リング上でアントニオ猪木の名を叫んだ。2009年9月、IWGPヘビー級王座3度目の戴冠の時のことである。
「このIWGPに昔のような輝きがあるか? 俺はないと思う。猪木! 旧IWGPは俺が取り返す! 時代が変わればプロレスも変わる。それでも俺はやります! ついて来る奴はついて来てください」
これを解説席で聞いていた棚橋は「中邑はストロングスタイルの呪いにかかっている」と言い切った。棚橋弘至と中邑真輔は2005年1月4日の東京ドーム大会での初対戦以降、幾度となく名勝負を繰り返して新日本プロレスの信用を取り戻すのに大きな役割を担った。同時代にふたつの、全く違うバックボーンと個性を持ち、タレント性も高いレスラーが存在したことが、新日本が息を吹き返すには何よりも必要だった。
もとより猪木よりも藤波辰爾ファンで、タイツも「ストロングスタイルの象徴」と言われる黒のショートタイツとはかけ離れた華やかなロングタイツを穿き、長い茶髪を振り乱しファンにアピールをする棚橋弘至はイメージ的には猪木のストロングスタイルとは一番遠いところにいると見られていた。新日本プロレスの道場に設立以来、ずっと飾られていたアントニオ猪木の巨大写真パネルを2008年に外させたのも、棚橋だった。
一方、デビュー以来「ストロングスタイルの申し子」と呼ばれ、「選ばれし神の子」との異名で猪木の直弟子であることを強烈に印象付けられた中邑は、新日本プロレスにおいてアントニオ猪木と濃密な時間を過ごした最後のプロレスラーだった。
猪木の命により抜擢され、あるいは猪木の命によって振り回され、猪木の影を感じさせることによって若手時代に新日本プロレスを背負い、死にものぐるいで生き抜いた中邑にとって、健全化した新日本プロレスは確かに歓迎すべきものではあったがどこか物足りなくもあった。必死にアントニオ猪木のイメージを払拭しようとしていた当時の新日本プロレスの中で猪木の名を出すことはもはやタブーであったが、中邑は「どうせならば一発かましてからおさらばしようぜ」という気概でその名を叫んだのだった。
「ストロングスタイルの呪い」から脱して
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