「これ全部が、がん細胞なんですか?」
手術の当日。
母の手術は予定を大幅にオーバーして、日がとっぷり暮れてから終わった。母がまだ麻酔から覚めないうちに医師団との面談があり、父と私、そして後から駆けつけた兄は、腹腔内の写真を見せられた。腹膜というのは内臓を包んでいる大きな膜のことなのだが、表面に小さな黄色い粒が無数に光っているのが見えた。
「これががん細胞です」
若い女性の執刀医は、写真をテーブルに並べながら説明してくれた。
「あの、この粒々のことですか?」と私。
「そうです」
「あの、これ全部が、がん細胞なんですか?」
「残念ですが、そうです」
「あの、基本的なことで申し訳ないんですけど、普通の人の、つまり健康の人の腹膜って、どんな感じなんでしょう? 普通はこういう粒がないってことですか?」
「そうです。健康であれば腹膜の表面はツルツルしています。川上さんの場合は、1つずつは1mm以下と小さいのですが、こういう小さいものが広範囲にわたって、たくさんあるということです。今後は抗がん剤治療をなさるということですね。治療については今後、主治医のほうから説明がありますから、詳しいことはその際に聞いてください」
面談室を出た瞬間、軽いめまいを感じた。がんというイメージから、もっと黒っぽいものかと思っていたのに、写真で見たがんの粒はちょっと黄味がかった透明で、ツルツルの腹膜にびっしりと、まるで小さな虫の卵のようにはびこっている。その姿は憎らしいというより、むしろ瑞々しく力強かったことがよけいにショックだった。
3人とも黙って母の病室に様子を見に行く。母はまだ麻酔から覚めきらないのか、私たちに向かって「大丈夫」と言うように手を上げたものの、うつらうつらしている。
病室を出ると、兄はいきなり「俺、おやじさんと1杯行くから」と言う。父は私の顔をちらっと見ると、少しきまり悪そうに「じゃあな」というように手を挙げて、兄と連れ立ってエレベーターに乗った。
あれだけショッキングな写真を見た後で、どう思うかとか、今後どうしようとか、少しは話をしたかったのに、肩すかしを食らったようで、私は唖然というよりはむしろ憮然として男2人を見送った。
残された私は、母の病室の前を行ったり来たりしていた。目覚めたばかりの母は、かなり不機嫌だ。足のうっ血を防ぐために、シュポッ、シュポッと空気が送られるマッサージ機のようなものを両足に履かされているが、これがきつい、脱がせてくれ、と騒いでいる。
「これ、さっきも痛いって言ったのに、看護師さんが取ってくれないのよ」
「でも、取っちゃダメって言われたんでしょ?」
「ナースコールも押したのに、誰も来ないし。ナースステーションに行って呼んできてよ」
コールを押したなら待っていれば来るでしょ、と思ったが、怒鳴られるのが嫌だったので、重い足を引きずってナースステーションに出向く。事情を説明すると、看護師さんが一緒に来てくれた。
「足がうっ血すると困るから。つらいけれど一晩は我慢してくださいね」と看護師さん。
「だってキツいのよ」と母はいつまでもごねている。
病室を出てから、「ごめんなさい、うちの母わがままで。手術の後だから気が立ってるんです」と頭を下げた。
「皆さん、いろいろ不安なんですよ。大丈夫ですから、もうお帰りください。ご心配でしょうけれど、面会時間はもう終わっていますので」
私は「ありがとうございます」と頭を下げた。帰る前に母に挨拶をしようとも思ったが、挨拶に行ったらもっと難題を吹きかけられそうな気がして、こっそりと薄暗い非常口のエレベーターに乗った。
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