第7回 「密輸された」アップルⅡの最初の1台は国立大学に納入された!!


「国立大学に納めたというのは快挙だね」
「今回は、教授個人としての購入ですがね」
「なるほど。でも国立大学の教授となれば、君の会社の宣伝文句に使えるじゃないか」
「そう。わかる人にはわかるんですよ、この名もないコンピュータの持つ力がね」

目の前のアップルⅡに電源を入れながら、愛でるように水島はその筐体をさすります。
曽田は水島のその様子を見て、納入先の国立大学教授の名刺を手に取ります。

登場人物たち

スティーブ・ジョブズ 言わずと知れた、アップルコンピューターの創業者。1976年に創業し、1980年に株式上場して2億ドルの資産を手にした。その後、自分がスカウトしたジョン・スカリーにアップルコンピューターを追放されるが、1996年にアップルに復帰。iMac, iPod, iPhone などの革新的プロダクトを発表しアップルを時価総額世界一の企業にする。

水島敏雄  東京で「ESDラボラトリー」という小さな会社を営む。マイコンの技術を応用し、分析、測定のための理化学機器の開発を行うために作った会社で、ESDという名称は、 Electronics Systems Development の頭文字をとっている。東レの研究員として働いていた時代から大型コンピュータや技術計算用のミニコンに通じており、マイクロコンピュータの動向には早くから注目していた。ESDは日本初のアップルコンピューターの代理店となる。

『スティーブズ』

曽田敦彦 構造不況の中、業績が芳しくない東レが、「脱繊維」を掲げ新分野として取り組んできたのが磁気素材の分野だった。ソニーのベータマックス用としてはさらに薄地で耐久性のあるテープ素材の開発が必要で、45歳になる曽田はこのプロジェクトの中心として部下に20名以上の研究員を従えている。地味で根気のいる仕事ではあったが、東レがハイテク新素材メーカーへステップアップする上でこのプロジェクトは重要な意味を持っていた。


ある午後、いつものように本郷のオフィスに顔を出した曽田に水島が喜々とした表情で話しかけてきた。

「曽田さん、ちょっとこれを見てください!」

そう言って差し出したのは、理工系の有名国立大学の教授の名前が記された一枚の名刺である。

「ただの名刺じゃないか……普通の名刺にしか見えないが、東工大の教授がどうかしたの?」

「もっとよく見てくださいな」

そう言って返した名刺の裏には、手書きで「アップルⅡを確かに納品いただきました」と書いてあった。

「へぇ、売っちゃったの」

「売れたと言ってくださいませんか?日本での出荷第1号機です。この教授がどうしても欲しいって言うんで、そのまま置いてきた、その納品書です」

「国立大学に納めたというのは快挙だね」

「今回は、教授個人としての購入ですがね」

「なるほど。でも国立大学の教授となれば、君の会社の宣伝文句に使えるじゃないか」

「そう。わかる人にはわかるんですよ、この名もないコンピュータの持つ力がね」

目の前のアップルⅡに電源を入れながら、愛でるように水島はその筐体をさすった。曽田は水島のその様子に感心して名刺をしげしげと眺めた。

日本では文部省が、データの転送手順やCPUの命令数などの推奨をいろいろと定めていた。業界の標準化を促進すべく、官庁が規格策定を行っていたというわけである。もちろんアップルⅡは、こういった基準をすべて逸脱したマシンである。水島があえてアップルⅡを支持するのは、ただの合理性によるものだけではない。官僚制に反発する水島特有の気質によるところも少なくないだろう。国立大学にこのアップルⅡを納めたという事実が、そんな水島にとってこの上ない励みとなったのは無理からぬことであった。

「頭の固い役人連中は、 マイコンはマニアのおもちゃだと決め込んでいるんです。でもね、大型コンピュータの不便さが一番身にしみているのは、多くのユーザーで資源を共有しなければならない研究者自身なんですから」

それが水島の、そして曽田の共通認識だった。

事実、日本でのアップルⅡの評判は、少しずつ噂となって広まっていった。噂を聞き付け、ESDのショールームスペースを訪れる客は少しずつ、しかし確実に増えていた。ESDからアップル社へのオーダー数もしだいに増え、やがては航空便を使っての本格的な輸入となっていった。課税と運搬費用、そして利益を乗せたESDの販売価格は60万円以上。であるにもかかわらず、アップルⅡは売れ続けた。ESDの売り上げにおいて、それまでの分析機器の受託開発の利益をしのぐ勢いとなっていった。

いつしかESDの門を叩くエンジニアの大半は、アップル関連の仕事に就くことを目当てとする若者で占められていた。それまでの産業用の制御ボードや理化学計測機器の開発受託では経験できなかった夢と若さが、アップルⅡを取り巻くビジネスにはあふれているのだ。

アップルⅡのような完成形のマイコン製品は、国産の競合製品には皆無だった。日本では一九七六年に日本電気からTK─80というむき出しのキットが発売されマニアの人気を集めている。

TK─80は、インテル社が開発したマイクロチップ8080を心臓部に据えたむき出しの回路基板で、「トレーニングキット」の頭文字から命名されたものである。発光ダイオード(LED)とテンキーを備えただけの無表情なこのキットは、世間を賑わしているコンピュータを実際に触って動かしてみることができるだけといってしまえばそれだけの製品であった。にもかかわらず、このキットはマニアから注目を集め、当初の予想を上回る出荷を重ねていった。このTK─80の予想外の販売数がきっかけとなり国内ではNECがマイコンの草分け的存在となるわけだが、これがやがてはPC98帝国と呼ばれる不動の日本のパソコンシェアを築く足がかりとなってゆくのである。

製造元の日本電気は、秋葉原のラジオ会館7階にアンテナショップを開設して、この製品の動向を見守った。「ビットイン」と名付けられたこの小さなアンテナショップは、商品販売よりも情報提供を主眼に置いたデザインがなされており、マイコンキットのユニークな使い方や周辺機器の事例を紹介していた。そのせいか、すでにTK─80を持っているユーザーもここに足繁く通うようになり、結果として秋葉原の一画のこのスペースは、常にマニアたちでごった返すこととなった。

他の日本メーカーらは、半導体という「まだ未完成な部品」がもたらした予想外の人気をどうとらえていいのか、途方に暮れた。警戒心を強める企業もあれば、無視する企業もあった。日本電気は、どの国産メーカーよりもはやくこのビットインというアンテナショップを通して、この動向を観察していく姿勢を持ち出していた。

ひとつだけ、業界の誰もが確信していること、それは、何らかの形でこの「半導体産業」が大きな波となってやって来るということだけだった。それだけは誰もが認めるところだったが、それがどんな形をした製品なのか? それがわからない。むき出しのボードがその答えとも思えず、いまひとつそのきっかけがつかめない。アップルⅡという製品は、アメリカから発せられたそのひとつの回答のようでもあった。

1977年の暮れが押し迫った12月。曽田敦彦はいつもどおりの時刻に有楽町線護国寺駅のホームで電車を待っていた。単身赴任の身である曽田は、この近くにある東レの独身寮から毎日通勤している。「東レアナリスセンター」という仮称で呼ばれていた分析受託の子会社は、最終的には「東レリサーチセンター」という名称で、いよいよ設立の秒読み段階に入っていた。

関係者たちからは「TRC」と呼ばれるこの「東レリサーチセンター」の設立準備オフィスは、日本橋東レの社屋内にある。翌年からの正式な営業開始を目前に控え、わずか3名の営業部隊はそこで多忙な日々を送っていた。測定、調査、ソフト開発などを主なサービスとし、当面のビッグクライアントは親会社である東レということになるわけだが、曽田をはじめとする東京の部隊の役割は、新しい顧客とサービスを開拓することである。準備に追われる日々は、曽田をESDの手伝いから徐々に遠ざけはじめていた。

年を越すと、曽田は46歳になる。学校を出てから現在に至るまで東レに身を置き、来年はリストラでいよいよ外に出される境遇の曽田にとって、今回の水島との冒険は気持ちに整理をする上でまたとない機会だった。妻を滋賀に残し、単身で上京している身にしてみれば、東レの独身寮で過ごす日々は孤独でもあったがまるで学生時代のような新鮮さがあった。

護国寺駅構内は、いつもどおりコートで着膨れたせわしなげな通勤客であふれていた。曽田は、いつも決まった時間、いつもと同じ位置で新聞を広げることにしていた。その日開いた新聞のニュースは、政府が発表した海外製品に対する関税引き下げの記事だった。

日本政府が経済対策会議において輸入関税を大きく引き下げたというニュースを、昨日の夕方から今朝にかけてマスコミは大きく採り上げていた。話題の焦点となっているのが、電子計算機である。ここ最近、米国政府との市場開放へのやりとりが取りざたされていたが、結果的に日本は譲歩する形を取ったことになる。

記事の中に、マイコンやパソコンについて言及しているものはまだない。コンピュータといえば大型計算機のことを指すのが当たり前の時代だ。マイコンなんてものは趣味の産物で、まだ産業として認めていないぞ、新聞はそういう風潮だった。

《水島と羽田空港に持ち込んだアップルⅡが、いつしか新聞を賑わす日がくるのだろうか?》

ホームに電車が滑り込んできた。曽田は、いつものように満員状態の電車に乗り込んでいった。

年が明けた頃から、アップルⅡという名称は、TK―80などのキット製品で飽き足らないマニアの間でも話題にのぼるようになっていた。大掛かりな宣伝をしたわけでもないが、秋葉原にとどまらず、ちまたのコンピュータへの認知度も高まりつつあった。ホビーコンピュータに関する専門誌が、それまでの無線や電気回路の雑誌に代わって登場しはじめた。専門誌『I/O』に続いて『アスキー』という名前のマイコン専門誌が産声をあげたのも、この年のことである。


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再び、かつてベンチャーだったアップルの製品に胸をときめかしていたあの時代の空気感を若い世代に伝えたい!!

この連載について

初回を読む
林檎の樹の下で -アップルコンピュータジャパン物語- ✕スティーブズ外伝

うめ(小沢高広・妹尾朝子) /斎藤 由多加

ふたりのスティーブ、ジョブズとウォズニアックが設立したアップルコンピューターは、1977年4月、サンフランシスコで開催されたウェストコーストコンピュータフェアに出展した。ジョブズがこだわりにこだわったベージュ色の本体の数が足りないので...もっと読む

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prisonerofroad #スティーブズ 約2年前 replyretweetfavorite

wasiike へぇ。。。すげ。 https://t.co/jtMdbYZuzU 約2年前 replyretweetfavorite

mangasalon_T 今回の復刊ではcakesで好評連載中のうめ先生による名シーン再現マンガも収録されます!逆に、復刊しなければこのマンガが今後書籍になる予定は今の所なし。。。!似顔絵を描いてもらえるリターンもあるのでうめ先生のファンの方も要注目です! https://t.co/IHyRUajdfZ 約2年前 replyretweetfavorite

tabasan_777 輸入するの結構大変だっただろうな。 約2年前 replyretweetfavorite