芥川龍之介が描く、愛と憎しみ、性欲さえも忘れる『女体』の美しさ

安野モヨコが選んだ八篇の"女体"にまつわる短編とともに珠玉の挿絵をお届けします。
cakesには八篇のうち二篇を特別掲載。第1回目は、芥川龍之介より『女体』。


楊某ようぼうと云う支那人が、ある夏の夜、あまり蒸暑いのに眼がさめて、頬杖をつきながら腹んばいになって、とりとめのない妄想もうぞうに耽っていると、ふと一匹のしらみが寝床のふちを這っているのに気がついた。部屋の中にともした、うす暗いの光で、虱は小さな背中を銀のこなのように光らせながら、隣に寝ている細君の肩を目がけて、もずもず這って行くらしい。細君は、裸のまま、さっきから楊の方へ顔を向けて、安らかな寝息を立てているのである。

 楊は、その虱ののろくさい歩みを眺めながら、こんな虫の世界はどんなだろうと思った。自分が二足か三足で行ける所も、虱には一時間もかからなければ、歩けない。しかもその歩きまわる所が、せいぜい寝床の上だけである。自分も虱に生れたら、さぞ退屈だった事であろう。……

 そんな事を漫然と考えている中に、楊の意識は次第におぼろげになって来た。勿論夢ではない。そうかと云ってまた、うつつでもない。ただ、妙に恍惚たる心もちの底へ、沈むともなく沈んで行くのである。それがやがて、はっと眼がさめたような気に帰ったと思うと、いつか楊の魂はあの虱の体へはいって、汗臭い寝床の上を、蠕々然ぜんぜんぜんとして歩いている。楊は余りに事が意外なので、思わず茫然と立ちすくんだ。が、彼を驚かしたのは、独りそればかりではない。

 彼の行く手には、一座の高い山があった。それがまたおのずからなまるみを暖く抱いて、眼のとどかない上の方から、眼の先の寝床の上まで、大きな鍾乳石しょうにゅうせきのように垂れ下っている。その寝床についている部分は、中に火気を蔵しているかと思うほど、うす赤い柘榴ざくろの実の形を造っているが、そこを除いては、山一円、どこを見ても白くない所はない。その白さがまた、凝脂ぎょうしのような柔らかみのある、なめらかな色の白さで、山腹のなだらかなくぼみでさえ、丁度雪にさす月の光のような、かすかに青い影をたたえているだけである。まして光をうけている部分は、融けるような鼈甲色べっこういろの光沢を帯びて、どこの山脈にも見られない、美しい弓なりの曲線を、はるかな天際にえがいている。……

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この連載について

安野モヨコと日本文学〜女の心とからだ〜

安野モヨコ

太宰治、岡本かの子、谷崎潤一郎、林芙美子、芥川龍之介、石川淳、森茉莉、有吉佐和子らが遺した<女体>をめぐる八篇に、安野モヨコが珠玉の挿絵で競演。 中央公論文庫より2016年4月21日発売『女体についての八篇 晩菊』より2篇を、2017...もっと読む

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コメント

koziseren 安野モヨコさんの絵がとってもすき。 有料記事だけど、これは必見だなぁ。 4年弱前 replyretweetfavorite

e11rin |女体についての八篇 晩菊|安野モヨコ|cakes(ケイクス) 読みたい。 https://t.co/lcWAu2iE6n 4年弱前 replyretweetfavorite

anno_moyoco 明日発売の『晩菊』のうちの1篇、芥川龍之介による『女体』を特別公開中です♪安野モヨコの壮麗な描き下ろし挿絵と一緒にお楽しみください〜!(スタッフ)#晩菊 https://t.co/6MuPzR4tbg https://t.co/CPUzsjqHC4 4年弱前 replyretweetfavorite

chuko_bungei 本日よりcakesにて安野モヨコ選・画『晩菊』の試し読みが公開中です。妻の体の美しさに性欲さえも忘れる、 安野さんによる作品解説は文庫版のみ。GWのおともにぜひ~ https://t.co/ocUp4nh6hy 4年弱前 replyretweetfavorite