第2回】『ダ・ヴィンチ・コード』ムーブメントの真実

「翻訳という仕事や翻訳書について興味を持ってもらうきっかけになれば」と、翻訳者の越前敏弥氏が定期的に行っているミニイベント「翻訳百景」。株式会社KADOKAWAの文芸・ノンフィクション局局長である郡司司聡氏を迎えたトークイベントの第2回、ヒットという言葉を超え、一大ムーブメントとなった『ダ・ヴィンチ・コード』。その知られざる秘話をお届けします。

名作の裏には内助の功!?

越前 僕、10月28日に公開される映画『インフェルノ』のチラシを見て驚いたことがひとつあるんです。それが何かというと、このチラシに描かれているウフィツィ美術館。『インフェルノ』の原作では、ウフィツィ美術館って出てこないんですよね、さっと前を通り過ぎるだけで。「フィレンツェが舞台なのに、なんでウフィツィ美術館を出さないんだろう」と思っていたら、映画ではちゃんと出してきていたので、驚きました。

郡司 『インフェルノ』もそうですが、彼の著作はすべてがかなり細かいところまで調べたうえで書かれていますよね。
 実は『ロスト・シンボル』が出る前に、ダン・ブラウンに会う機会があったんです。当時彼は世界中のプロモーションで忙しく、なかなか時間が取れないということだったので、ボストンまで行きました。最初はどんな人かとドキドキしていたんですが、上品なのにユーモアのセンスもあって、とてもフレンドリーな方で。取材にも、半日ほども付き合ってくださいました。

越前 お会いになった場所はどこだったんですか?

郡司 ボストンから車で40分走った彼の出身高校、フィリップス・エクセター・アカデミーです。すごく雰囲気のある古い名門高校の図書館の中で、お話を伺いました。

越前 その時はどんな話を?

郡司 「アイデアはどう浮かぶのか」とか、「執筆はどういうふうに進めているのか」というような話をしましたね。奥さんの協力がとても大きいと仰っていました。奥さんも研究者なので、わからないことがあると奥さんに質問したり、あるいは調べてもらったりと、作品の裏には内助の功的なものがあると告白されていたのが印象的ですね。

越前 たしか奥さんは彼の12歳年上なんですよね。

郡司 ダン・ブラウン氏が歌手だった頃にマネージャーを務めていた方だそうですね。きっととても面倒見がいい方なんでしょう。ブライズという奥さんがいなければ、作家ダン・ブラウンは生まれなかったに違いないと思います。

「魔がさして」手に入れた2冊の版権

越前 『ダ・ヴィンチ・コード』の版権獲得は、やはり相当なバトルがあったのかという質問が寄せられているので、当時のお話を差し支えのない範囲で伺っていけたらと思うのですが。そもそも『天使と悪魔』と『ダ・ヴィンチ・コード』の版権は抱き合わせだったんですよね。

郡司 そうです。海外のエージェントが作家を売り込む際、例えば作家に知名度があったり、先物買い的な意気込みだったりするときに、two book deal(二冊買い)を持ちかけてくることがあるんです。でもそれって僕らからすると、リスクは高くなるわけで、何かと警戒してしまうものなんですよ。しかもこれを持ちかけられた時って、『天使と悪魔』の原稿はあったものの『ダ・ヴィンチ・コード』の原稿はほとんど何もなくて。

越前 ストーリーも冒頭のところだけでしたよね。

郡司 だからそんな状態で2冊分の版権を買うなんて、普通はありえないんです。「そんな高飛車なディールはできません」と断るのが普通なんですけど、その時は・・・・・・魔がさしたとしか言いようがないですね(笑)。しかも、その頃ってしばらく続いていた翻訳書ブームが下火になって、厳しい時代になってきたのを感じていた時だったので、まだ実績のない作家のフィクション作品を2冊まとめて買うというのは、ちょっとした冒険だったんですよ。

越前 では版権取得にあたってもスムーズに?

郡司 今、考えるとびっくりするくらい好条件でできちゃいましたね。

越前 じゃあ、結果、魔がさして良かったというか。

郡司 そうですね。でも実際すごく迷ったんですよ。『天使と悪魔』は面白いと思ったけど、翻訳書ブームが下火になっているという部分でも結構悩んで。最終的には、何人かの編集者で検討していた際の「何かこれ、ちょっと変わってるし気になる」っていう意見を汲んで、「じゃあ、やってみようか」と決めたんですけどね。
 これ翻訳書を出すときに僕らが見ている点なんですが、「面白いテーマでも日本人でも書けそう」なものには、食指は動かないんですよ。もし日本人で同じものが書けるなら、日本人はそっちを買うわけで。海外の文化や、海外の人ならではの思考、そういったものがあって日本人の作品とは違うきらめきを放つものを、僕らは海外の本に求めてます。

越前 『ダ・ヴィンチ・コード』がまだ全然出てきていない状態で、よくぞ。

郡司 そうそう、当時は『天使と悪魔』のあと『ダ・ヴィンチ・コード』が出てくるなんてまだ全然知りませんでしたからね。しかも、版権を取ったあとにニューヨークのブックフェアでその2冊を売り込んできたエージェントに会ったんですけど、その時見せられた『天使と悪魔』の装丁が、なかなかひどくて(苦笑)

越前 向こうで出版社が変わったときに、新たに作られた装丁ですね。あれは世の中に出回らなかったんじゃないかな。出版社が変わる前の装丁は、ANGELS AND DEMONSっていうのが、アンビグラムになっている、とても良くできたものだったんですけど。

郡司 その時に見せられたものは、中身を読んで楽しみにしていただけに、かなりがっかりした記憶がありますね。だから、実はあの2冊って、そんなに最初からときめいていた作品ではなかったんです。

翻訳者、出版社ともにプレッシャーとの戦いだった『ダ・ヴィンチ・コード』

越前 そんな事情をまったく知らなかった僕のところに『天使と悪魔』の話が来たのが、2003年の2月ごろ。アメリカで『ダ・ヴィンチ・コード』が発売されたのは、たしかその1カ月くらいあとでしたよね。

郡司 あれ、ということは、僕がニューヨークに行っていた時点で『ダ・ヴィンチ・コード』の原稿もあがっていたのかな?

越前 いや、その時点では前半のシノプシス(概要やあらすじ)しかきていなかったはずです。でも僕としては『ダ・ヴィンチ・コード』云々は置いておいても、『天使と悪魔』がちょっと稀なぐらい面白かったので、すぐに引き受けたんですよ。だからまさか『ダ・ヴィンチ・コード』があれほどまでのブームになるとは、まったく思っていなかったですよね。

郡司 だからアメリカで『ダ・ヴィンチ・コード』が発売になった時に「ものすごく売れている」っていうニュースを聞いて、これは大変なことだと色めき立って。だけど同時に、「これ、日本でだけ売れなかったら、すごく格好悪いな」とも思いましたね。

越前 『ダ・ヴィンチ・コード』が日本で発売されるのはその1年後になるんですが、ここからの流れを僕の目線で話すと、『天使と悪魔』を訳しはじめた辺りで『ダ・ヴィンチ・コード』がアメリカで発売されて、いきなり発売初週で全米ベストセラーで1位になったんです。そうすると、今度は僕への原稿の催促が激化してきたんですね(笑)

郡司 売れれば売れるほど、編集者は現金なもので、そうなっちゃうんですね(笑)

越前 このあたりの話は『翻訳百景』でもいろいろ書きましたが、『天使と悪魔』は相当な速さで8割がた訳して入稿して、残り2割はあらすじだけを先に訳しておいて、それを元に装丁作業なんかをやってもらってる間にきちんと訳すっていう、相当な綱渡り状態での進行だったんですよ。

郡司 当時はそんな状況でしたよね、本当にすみません。

越前 いやいや、ただすごいのが、その作業を進めている間も『ダ・ヴィンチ・コード』はいつまで経っても1位のままなんですよね。だからその時、『ダ・ヴィンチ・コード』を先に出したほうがいいんじゃないかというような話もありましたよね。

郡司 ありましたね。編集者は1位になったところで「今、出さなきゃ」って思ってしまう。今考えると、欲が先走っていたと思います。

越前 もちろん気持ちはわかるんだけど、僕としては『天使と悪魔』を8割やったところでいきなり『ダ・ヴィンチ・コード』をやってくれって言われても、というのがあって。それを納得していただいた結果、先に『天使と悪魔』が日本で発売になって、それから『ダ・ヴィンチ・コード』の訳にかかったんですけど、結局それから半年経って『ダ・ヴィンチ・コード』の訳を終えた時点でも、まだ1位を守り続けていたんですよ。だから結果として、『天使と悪魔』発売の時点ではミリオンセラーに過ぎなかった『ダ・ヴィンチ・コード』は、発売を1年先送りにしたことによって、700万部、800万部にまで成長した状態で宣伝できたというわけです。

郡司 ニューヨークの紀伊國屋書店で先行発売をしたりだとか、いろいろな仕掛けを含めて、大きく宣伝できましたね。

越前 確か5月末に日本で発売する予定だったんですけど、その4週間くらい前にニューヨークの紀伊國屋書店で売ることになったんですよね。だからそこでも、早めに原稿を進めなくちゃとか、いろいろあって。

郡司 しかも、出来上がった状態の本を向こうに送らなくちゃいけないから、相当早く進行しないといけなくてね。

越前 最後まで尻に火がついているような状態で訳していました。でも、いろいろプレッシャーをかけられながらも、本当にいい勉強をさせてもらったなと思っています。最初ニューヨークの紀伊國屋書店で先行販売って聞いたときは、正直「売れるの?」って思っちゃった部分もあったんですが、やっぱりあれだけのスケールになると、アメリカに住んでいる日本人が買ってくれるんですよね。

郡司 英語版はとっくに出ているので、「日本語版が出てもそんなに売れないかも」と心配したりもしましたが、蓋を開けてみるとものすごく売れて。しかもそのニュースが5月の連休中にネットで流れたことによって、日本のAmazonでのランキングも発売前にもかかわらず一気に2位、3位まで上がったんですよ。あまりにも原書が売れ続けていたから、格好悪いことはできないというプレッシャーは常にありましたが、結果として、本を売る仕掛けについてすごく勉強になった1冊でした。

越前 ちなみにその時1位だったのが、『ハリー・ポッター』の続編なんです。『ダ・ヴィンチ・コード』、実は日本のAmazonで1位を取ったことがないんですよね。ついぞ、その『ハリー・ポッター』は抜けなかったんですけど、でも、あれをバネにまた頑張るっていうのはありましたよね。

郡司 ちょっとした裏話なんですが、

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ダ・ヴィンチ・コード』翻訳秘話

越前敏弥

全世界で7000万部、日本でも1000万部を超える大ヒットとなったダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』。そのシリーズ最新刊である『インフェルノ』の文庫版の発売と、翻訳者の越前敏弥氏による新書『翻訳百景』の発売を記念し、越前氏とKAD...もっと読む

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kadokawashinsho 名訳はこうして紡がれる。『ダ・ヴィンチ・コード』訳者が明かす舞台裏。 11ヶ月前 replyretweetfavorite

t_echizen cakesに掲載された2月の翻訳百景イベントのレポート、今週末まで無料で全部読めます。第1回「翻訳者と編集者、フリーメーソンに侵入?」https://t.co/pDrhMFxzmz第2回「 11ヶ月前 replyretweetfavorite

junk_land タイミングよくこんな記事も。 https://t.co/PBpTTYD6kf 12ヶ月前 replyretweetfavorite

t_echizen 2月の翻訳百景イベントの採録記事がcakesに掲載されました。しばらく無料で読めます 第1回「翻訳者と編集者、フリーメーソンに侵入?」https://t.co/zO3wtDkKkd 第2回「 12ヶ月前 replyretweetfavorite