かわいいだけでなく、たくましい。子どもの可能性に気づいた日
——松本さんは、大学時代は商学部で経営について学んでいたんですよね。そこから、どのようにして保育園にたどり着いたんですか?
大学時代は、けっこう頭でっかちだったなと思います。経営学や経済学を専門としていたのですが、そこで言われている「価値」というのが何なのか、よくわからなくて悶々としていました。同時に、いまはブック・コーディネーターとして活躍している内沼晋太郎くんが同級生にいて、一緒に雑誌をつくっていたんです。彼が編集長で、僕がアートディレクター。いわゆるカルチャー誌で、著名な方に取材させていただくなど、かなり精力的につくっていました。編集部では、「これから、情報はすべてネットに流れていくだろう。それでも紙媒体は何らかの意味で残るはずだ」といった議論をよくしていました。
——いま議論されているようなことを、15年以上前に話されていたんですね。
そうですね。そんな大学生活だったのですが、あるとき授業で、児童養護施設でのボランティアに行く機会がありました。それまで私は子どもに対して、「かわいいな」としか思っていなかった。でも、そこの子どもたちと触れ合ううちに、自ら学び、育っていくたくましさもある存在だということを知りました。子どもは可能性の塊なんです。子どもって、おもしろい! そう思って、幼児教育について調べていき、子どもたちの育ちや学びを中心に据えた、グランドデザインに現場の経営の立場で携わっていきたいと思ったんです。
——そういう想いにたどり着いたのは、いつのことでしょうか?
大学3年のときです。でも、学生の立場でいきなりグランドデザインなどできるわけもない。進み方も見えなかったので、どうしようと思っていました。そうしたら、お話を聞いていた保育関係者の方が「一度、社会を広く見てきたら?」と言ってくださったので、就職をすることにしました。教育はコミュニケーションが本質だと思っていたので、広告代理店を受け、縁あって博報堂に入ることになりました。そこで、教育企業のブランドマネジメントを仕事を通して学ぶことができたんです。
——ここでも、保育園経営につながりそうなお仕事をしていたんですね。
運が良かったと思います。クライアントとの話し合いでは「理念と経営のバランスが大事」ということをよく言っていたのですが、果たして自分が経営するとなったときに、それができるのかなと思いました。そこで、会社の先輩に「経営を学ぶなら、自分で経営するのが早い」というアドバイスをいただき、博報堂をやめて、まずは友人と会社を立ち上げることにしました。経営はすごく大変でしたが、なんとか軌道に乗って落ち着き始めたところで、独立したんです。
——保育園設立に向けて、動き始めた。
はい。2009年から準備を始めて、2011年に「まちの保育園 小竹向原」を開園しました。その後、2012年12月に「まちの保育園 六本木」を、2014年10月に「まちの保育園 吉祥寺」を開園しました。