詩や文学という枠をつくってそこで夢中になるふりをしてから現実に戻り、ふたつの世界を冷静に比較してもあまり意味はないのだ。あらかじめ目標を定め、楽しもうと意気込んだりすれば、体験の質は下がる。言葉は疑似餌ではない。
『その姿の消し方』より
となると、最新作『その姿の消し方』作中に出てくる上の言葉が気にかかるようになる。作品の質を保証するのは、体験の質ということか。どんな体験をするか、そこから何を思うか。ひいてはどんな態度で生きているかということが、作品の質を決定するのか。
体験するためにどこかへ行ったり何かをするのとは、ちょっと違うんですよ。どんな体験であれ、体験そのものには優劣の差なんてありません。人が驚くような体験をたくさんすればいいのかといえばそうではない。肝心なのは、その人なりの体験の捉え方や扱い方です。話していて「厚みのある人だな」と感じるのは、その人の話し方や言葉の選び方がいいからです。つまり体験とは、質そのものが問題というよりも、質を高めるため引き出し方のことなんです。あるいは、体験の眠らせ方、起こし方の問題ですね。
AさんとBさんの体験に優劣がつけられるわけではなく、保存と活用のしかたによってアウトプットが変わってくるということ?
そう、その人のなかでの、体験の発酵のさせ方によって、ずいぶん変わってくるのではないですか。
波乱万丈の半生を持つ人の体験はやっぱりすごいとか、そんな単純な話ではなさそうだ。
波乱万丈だからいいかどうかは、わかりませんね。そもそも波乱万丈って、どういうものでしょう。僕は不注意でよく転びます。家から大学に着くまでに5回転んだこともある。それだって、波乱万丈のうちに入るんですよ。僕は波乱万丈の日々を送っているともいえるわけです。なぜ同じところで転ぶのか、しかも何度も転ぶのか……。真剣に考え込んでしまいますからね。
堀江作品も毎度、波乱万丈の物語が展開されているということなのか。
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