フランス西南部の内陸寄りにあるM市を私が訪れたのは、留学生の頃に古物市で偶然入手した、一枚の古い絵はがきがきっかけだった。
『その姿の消し方』より
ああ世の中にはいろんな文章があって、意味を伝達することにとどまらず、それ自体を味わうのが楽しくてしかたがない。そんなタイプのものも存在するのだ。そう気づかせてくれるのが堀江敏幸作品の魅力である。本のページを開いているあいだは言葉の海に全身を浸して、そのままずっとたゆたっているような気分になる。
息の長い文章を読みくだしていけば、一つひとつの語がするすると身体のなかに流れ込んで、次の文、次の行へと進んでいくことそれ自体が悦びになる。新作『その姿の消し方』も、もちろん例外じゃない。
たまたま手に入れた古い絵はがきの裏に、短い一編の詩が書かれているのを見つけた「私」は、それをきっかけに詩人アンドレ・ルーシェを知ることとなる。
わずかな手がかりをたよりに詩人の姿を求める「私」の行動は、情熱と真剣さをたっぷり帯びているのだけれど、実際にやっているのは古い絵はがきを探し求めるくらい。世間的には些事と捉えられて当然の、小さいことだ。身近にあるささやかな出来事を巡って文章が綴られていくのは、堀江作品でおなじみの型だ。大きな事件や社会的な事象と結びつかず、浮世離れした感覚がついて回るのは、作者として意図的にしていることなのだろうか。
小さなことを書いているつもりは、とくにないんです。僕にとっては大事件ばかりで。たとえば、ここは大学内で僕に割り当てられた部屋ですが、入口の扉の脇に、女性ものの傘が置いてあります。これが誰のものなのか、わからないんですよ。あの傘の持ち主が誰で、どうやったらその人に届けることができるのか。僕にとっては、それが現在の政治の動きと同じくらい大きい問題なんです。政治の話と道端に落ちている石の話は、等価なんですよ。というか、政治と道端の石、その二つはつながっていて、どちらか一方だけが存在するということはない。
と作家本人はいう。では、意図的に小さい話ばかりで作品を構築しようとしているわけでは……。
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