断とうとしても断てない稚児の魅力
鎌倉時代の僧、宗性(そうしょう)は、源頼朝の似せ絵で有名な藤原隆信の孫にあたり、若干13歳で仏道の世界に入りました。彼はせいぜい五位クラスの中級貴族の出でしたが、才気あふれる男だったようで、優れた学僧として華厳宗をはじめとする様々な仏の教えを修め、果ては東大寺の別当、日本の官僧の頂点にまで上り詰めました。
その宗性が36歳の1237年、弥勒菩薩の浄土とされる兜率天(とそつてん)への往生を願って書いた五か条の誓文が残っています。大変興味深い内容になっているので、以下に要約を引用します。
一、41歳以後は、つねに笠置寺にこもります
二、現在までで95人になってしまいましたが、男を犯すのは100人までで、それ以上は淫らなことはいたしません
三、亀王丸以外に、愛童はつくりません
四、自分の部屋に上童子は置きません
五、上童子、中童子のなかに念者はつくりません 右の五条は一生を限り禁断します。
95人!95人!95人!
彼が出家した13歳から36歳までの24年で単純に割ると、1年あたり3人~4人のハイペースで男と付き合っていたことになります。これだけやりたい放題やっておきながら、まだ物足りず、あと5人、100人まではと言える神経は、一体何で出来ているのでしょうか。
また、次の条で亀王丸以外に愛童は作りませんと言っていますが、これも「亀王丸とはセックスします」という宣言にしか見えなかったりします。
自分の部屋に上童子は置きませんと言っているのは、目の届く場所にいると、ついつい手を出してしまうからでしょうか。
上童子、中童子に手は出さないと書いているのも、
「じゃぁ大童子には手を出す気なんだ。でも、それって亀王丸だけを愛しますって言ってる第3条と矛盾するじゃん!」
ととにかく突っ込みどころ満載の誓文です。しかも、一生を限りと書いているので、生まれ変わったらノーカンにする気満々。こんなユルユルの誓文で本当に極楽へ行けるのでしょうか?
ちなみに、宗性はこの16年後の1253年、大安寺別当に任命され、笠置寺にこもるどころか、仏教界の出世街道を駆けのぼっているので、第一条はあっさり反古にされたようです。
こんな調子では、その他の条々がどうなったかも想像に難くないのですが、案の定、1275年、宗性が74歳のときには、力命丸という別の童子を愛していたことが分かっています。
年齢のせいもあるのでしょうが、力命丸については、真実、宗性も愛していて、彼が辻斬りにあって殺害されると、その百か日の追善のために、「華厳宗祖師伝」を書写しようとしました。ただ、あと少しのところで書き損じ、その嘆きを奥書に記録しています。
彼は他にも「お酒を断ちます」という誓文を出しては失敗、また新しく誓文を書くということを繰り返しているので、どうも物事がいつも中途半端に終わっちゃう人だったようです。悪く言えばどうしようもない生臭坊主、よく言えば人間臭くて憎めない高僧でした。
力命丸の死にはさすがの宗性も参り、ついに笠置寺に引っ込みました。そして余生は、最愛の少年の菩提を弔うことに費やし、1278年、77歳で死去します。誓文は片っ端から破り倒しているので、極楽に行けたかは分かりませんが、「片時も恋慕の情がやむことはなかった」少年とはきっとあの世で再会出来たことでしょう。
稚児を巡って争う僧侶たち
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