哲人の理屈はめちゃくちゃだ! 青年は憤怒に駆られていた。学級は、小さな民主主義国家である。そして学級の主権者は、生徒たちである。そこまではいい。しかし、なぜ「賞罰はいらない」なのか。学級が国家であるならば、そこには法が必要ではないか。そして法を破り、罪を犯す者がいるならば、そこには罰が必要ではないか。青年は帳面に「問題行動の5段階」の文字を書き留め、微笑んだ。アドラー心理学が実世界に通用する学問なのか、あるいは机上の空論なのか、ここで見定めてやる。
問題行動の「目的」はどこにあるか
哲人 なぜ、子どもたちは問題行動に走るのか? アドラー心理学が注目するのは、そこに隠された「目的」です。つまり、子どもたち——これは子どもに限った話ではありません——が、いかなる目的を持って問題行動に出ているのか、5つの段階に分けて考えるのです。
青年 5つの段階ということは、徐々にエスカレートしていく、という意味ですね?
哲人 ええ。そして人間の問題行動は、すべてこのいずれかの段階に該当します。エスカレートしてしまわないうちに、なるべく早い段階で対策を講じなければなりません。
青年 いいでしょう。では、最初の段階から教えてください。
哲人 問題行動の第1段階、それは「称賛の要求」です。
青年 称賛の要求? つまり「わたしをほめてくれ」ということですか?
哲人 はい。親や教師に向けて、またその他の人々に向けて、「いい子」を演じる。組織で働く人間であれば、上司や先輩に向けて、やる気や従順さをアピールする。それによってほめられようとする。入口は、すべてここです。
青年 むしろ好ましいことじゃありませんか。誰に迷惑をかけることもなく、生産的な活動に取り組んでいる。人の役に立つことだってあるでしょう。問題視される理由など、まるで見当たりませんけどね。
哲人 たしかに、個別の行為として考えた場合、彼らはなんの問題もない「いい子」や「優等生」に映ります。実際、子どもたちであれば学業や運動に、会社員であれば仕事に精を出すわけですから、ほめたくもなるでしょう。
しかし、ここには大きな落とし穴があります。彼らの目的は、あくまでも「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば「共同体のなかで特権的な地位を得ること」なのです。
青年 ははっ、動機が不純だから認めない、ってわけですか。まったくナイーヴな哲学者だ。仮に「ほめてもらうこと」が目的だったとしても、結果として勉学に励んでいる生徒ですよ? なんの問題もないでしょう。
哲人 では、その取り組みについて、親や教師、上司や仕事相手がいっさいほめなかったとしたら、どうなると思いますか?
青年 ……不満を抱き、場合によっては憤慨するでしょう。
哲人 そう。いいですか、彼らは「いいこと」をしているのではありません。ただ「ほめられること」をしているだけなのです。そして、誰からもほめられないのなら、特別視されないのなら、こんな努力に意味はない。そうやって途端に意欲を失います。
彼らは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていくのです。