プロローグ
時刻は午前0時をすぎている。今日はクレーム処理に追われて、夕食をとる暇もなく働きつづけ、会社を出たのが夜の11時。そのあと1時間満員の電車に揺られて、ようやくいま自宅近くの駅までたどりついたところだ。
「さ、コンビニで弁当でも買って帰るか」
そう決めると、ぼくはポケットに手をつっこんで歩きはじめた。
……ブブブッ……ブブブッ……。スマホがブルブルとバイブレーションしている。
「こんな時間にメッセージ? いったい誰だ?」
ぼくはスマホをとり出してロックを解除した。
「ソクラテスさんから友達申請がきています」
Facebookの画面を見ると、こう表示されていた。
「はっ? ソクラテス?」
あたり一面に静けさの漂う深夜の路上で、思わず声が出てしまった。
ぼくの名前は清水サトル。27歳、サラリーマンだ。コピー機やプリンターをリースする中小企業に勤めて今年で5年目になる。近頃は、どうも毎日の生活がマンネリ化していて、仕事もプライベートも面白くない。この若さでこんなふうに言うのもどうかと思うけど、はっきり言って人生に退屈している。何か大きな事件が起きて、世の中が滅茶苦茶になってくれればいいのにと思うくらいだ。まったく、いつからぼくは、こんなにひねくれた人間になってしまったんだろうか。
……それにしても、なんていたずらだ。ひさしぶりに友達からメッセージがきたと思ったら、発信者が「ソクラテス」だって? まったく人をバカにするにもほどがある。どうせ新手の詐欺か何かだろう。うっかり友達申請を承認したら、怪しいサイトに誘導されてシベリアのダイヤモンド鉱山の権利を格安で譲られたり、色情狂の美人投資家から一夜かぎりの関係をせまられたり、遠い親戚からスワジランド王国の爵位を継がされたりするに決まっている。いくら刺激がほしいといっても、そんな怪しい話に乗せられるほど、ぼくはバカじゃない。
「自称ソクラテス」からの友達申請に対して、ぼくは躊躇なく「いいえ」ボタンをタップした。そしてスマホをカバンに放り込み、駅前のコンビニでビールとつまみとカツ丼を買ってから、そそくさと家路についた。
帰宅して、テレビをつけて、部屋着に着替える。座布団に腰をおろして、ぼんやりとニュースを眺めながら、冷めかけたカツ丼を口に運ぶ。これも全部、仕事と同じルーチンワークだ。普段よりごはんがおいしく感じられるのは、たぶんお腹が減っているからだろう。
テレビの画面には、いつものように、政治家の収賄事件やタレントの「不適切な関係」をめぐる報道が、くるくると忙しく映し出されていた。
「つまらないな。いや、世の中がつまらないんじゃなくて、ぼくがつまらないのか……」
気づいたら、こんなひとり言をつぶやいていた。ぼくはテレビの電源を切って、残ったカツ丼を一気に口のなかにかきこんだ。
部屋が静かになると、不意にさっきの「ソクラテス」のことが頭に浮かんできた。
「ソクラテスって名乗ってるのはどんなヤツだろう? よし、調べてみるか」
ぼくはおもむろにスマホを取り出し、Facebookのアプリを立ち上げて、「ソ・ク・ラ・テ・ス」と検索した。
「見つけた! さっきの詐欺師だ」
名前 ソクラテス
年齢 70歳
職業 哲学者
出身地 アテナイ
特技 人生相談
座右の銘 「善く生きろ」「魂の世話をしろ」「おのれの無知を自覚せよ」
知徳一致、知行合一、無知の知、魂の配慮——。高校で習った倫理の授業の記憶がよみがえってきた。たしか全部ソクラテスが言ったことだ。それと似たような言葉が、座右の銘に並んでいる。
「これって要するに、歴史上のソクラテスのプロフィールそのままじゃないのか?」
プロフィールの写真の大理石像も、どこかで見た覚えがある。たぶんこれがソクラテスの彫像なんだろう。
友達の一覧をチェックすると、アスパシア、エウリピデス、クリトン、シミアス、パイドロス、プラトン、プロディコスと、外国人の名前がずらりと出てきた。どうやらこの「自称ソクラテス」は、詐欺師というよりも本物の変人らしい。おおかた変人同士で集まって、仲間うちで哲学者ごっこでもしてるんだろう。バカバカしい。
……でも、そういう遊びは嫌いじゃない。 「いったいどんな議論をしてるんだ?」
ぼくのなかで、だんだん「ソクラテス」なる人物への興味が湧いてきた。
……ブブブッ……ブブブッ……。
そのとき再びスマホが鳴った。
「やあ、サトルくん。いまちょうど、キミの家のすぐそばのアゴラ公園にいるよ。このあと何か予定はある? よかったらいまから一緒に哲学しない?」
「自称ソクラテス」からのメッセージだった。友達申請を拒否したのに、いったいどうやってメッセージを送ってきたのか。ぼくは背筋がゾクッと冷たくなるのを感じた。
その後、どうして公園に行ったのか、自分でもよくわからない。もしかすると、自分の心をこんなにもかき乱す「ソクラテス」の正体を、どうしても知りたくなったのかもしれない。
ともかくぼくは、上着をひっつかんで、ほとんど無意識に家を飛び出していた。 21世紀のいま、「ソクラテス」に出会うために。