僕の家の近所には、オシャレなフランス料理屋がある。
幸せそうなカップルが、店の中に入っていく。
それを見るたびに、僕の体内にあるドブ川は反乱する。
当時の僕にとって、一番の敵は空腹で、二番目の敵は、幸せを見せつけられることだった。
その二つに今、正面衝突したのだ。
その光景は、コンタクトを外さないで眠った時のように、いつまでも眼球にへばりついて離れない。
僕も、そのカップルに続いてフランス料理屋の中に入る。
客としてではなく、そこで働いているウェイターとして。
「おはようございます」
毎日遅刻する寸前、ギリギリの時間に行く僕に、店長はいつも苛立っている。
「もうちょっと早よ来い」と冷たく言い放つ店長。
「はい」と答えつつも、店長が言ったその言葉を、実行する気はさらさらない。
さっきまで家でネタを出していた。見た目はいつも通りかもしれないが、中身は、顔を食べさせた直後のアンパンマンのように、えぐられまくって疲労困憊だ。
そのまま更衣室へ向かい、制服として支給されたオシャレなワイシャツに着替えた。
ハガキ職人になって、三年目に突入していた。
僕の中の信号機は、青信号しか存在しない。前へ前へ高速で突き進む。顔のパーツがすべて後ろに吹っ飛ぶような、何も残っていないくらいの高速だ。
何も考える暇はない。
けれどその頃にはもう、ネタを読まれることにも、採用されることにも、なんの喜びも感じなくなっていた。
そうなった瞬間に、ハガキ職人の賞味期限は切れる。
ハッキリとそれが切れたと悟ったのは、壁に貼った採用数をカウントした紙を、はがした瞬間だった。
だけど、やめるという選択肢はない。
僕は笑いに狂って生きるんだ。
心臓に手を当ててカイブツの気配を探る。鼓動が乱れている気がする。
今いるここは、まさしくハガキ職人の晩年だった。
ワイシャツに着替え終える。
「いつ見ても似合ってへんな」と鏡の前で首をかしげる。
そこに映っているのは、似合わないワイシャツを着た、不気味な顔をした坊主頭の男だった。
すべての顔面のパーツを失った、のっぺらぼうのカイブツ。それが僕の“本当の姿”のはずだ。
やはり現実の僕の姿と、“本当の姿”はあまりにも違いすぎる。
三年前、ハガキ職人を始める時、散髪屋で坊主にしたのを思い出した。
あの時も、確か僕は今と同じようなことを思った。
あの日から今日に至るまで、一体何が変わった?
電車の連結部分にずっといるくらい不安定な毎日は、その頃も今も変わらない。
更衣室から、ホールに出た時に、僕はようやく気付いた。
今日はクリスマスだったんだ。だから、こんなにカップルが多いんだ。
店内にいるカップルのほとんどが、僕とは住む世界が違うような美男美女だった。
特にあの女。モデルみたいに、いい女だな。
どうやったら、付き合えるんだろう?
僕のところには、ブス女さえ寄り付かない。
年齢と同時に童貞期間も更新。下半身の、ど真ん中のこれ、なんのためについてんだ?
オナニーする時間すらもったいないから、こんなもん、引きちぎって捨ててやりたい。
今この店内にあるのは、イケメンと美女、オシャレと贅沢、つまり生きることを楽しむことの天才たちの姿だ。
この人達は生きることを楽しんでいる。
その時、僕の脳裏に浮かんだのは、日本のテレビドラマだった。
あれを見ていると、まるでそうじゃない人間は、存在しちゃいけないと言われているように感じる。
こんな気持ち、こいつらには一生、分からないだろう。
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