女装する美貌の少年たち
前回は日本の女形を取り上げたので、今回は中国の女装する男子「服妖」をテーマにしたいと思います。服妖とは服装の妖怪を指します。
儒教の国、中国は性的規範が強く、男の着るべき服、女の着るべき服が、近代以前ははっきりと規定された国でした。
漢代の災害や異変とその解釈を記した『漢書・五行志』には、
「風俗が乱れ、節度がはきちがえられると、奇怪な服を着るようになる。だから、服妖が起こるのだ」
とあり、宦官などの例外をのぞき、男女のジェンダーが乱れることは亡国の兆しとされ、厳しくいましめてきました。わたし達は学校でよく服装の乱れは心の乱れなど教えられてきたものですが、中国では服装を乱すものは妖怪、モンスターの類とされていたのです。
たとえば、晋の恵帝の時代、婦人のアクセサリーとして、兵器をかたどったものが流行ったことがありました。このことを、政治家かつ怪異小説家であった干宝(かんぽう)は評して、
「男女の別は、国にとって大事な節度である。……今、婦女なのに、武器をアクセサリーにしているのは、婦人妖のはなはだしいものである。かくして、ついには賈后(かごう)の事件が起きたのである」
と、後に亡国のきっかけとなった政変の前兆としています。
しかし、中国は、マジシャン引田天功の如く、自分で課した鎖や足かせを、自分で何とかして解き逸脱するのを楽しむ国でもあります。
例えば、三国志で有名な曹操の養子であった何晏(かあん)は、色白な肌をした美男子で、白粉を手放さず、女物の服を着て、手鏡を取り出しては自分の姿を映して、ウットリしていたと言います。
また、六朝時代、江南を支配した梁朝が全盛のころは、貴族の子弟たちは学問もせず、着物に香をたき込め、顔はそり、白粉と紅で化粧をしないものはいなかったそうです。
また、ライバルの北朝も似たようなもので、北斉の初代皇帝、文宣帝・高洋は帝位をうばった前王朝の王室につらなる美貌の彭城王・元韶(げんしょう)のひげをそり、念入りに化粧させて寵愛したと言います。ちなみに、文宣帝は「快刀乱麻を断つ」の語源にもなったほど有能な人でしたが、同時に残忍なサディストで、元韶の讒言(ざんげん)を聞いて、前王朝の一族郎党を皆殺しにしてしまいました。
このとき、奇怪なことに元韶自身も、絶食して自殺しています。女装させられた身で、己が一族を滅ぼすことを進言し、自らの命も絶った服妖の美男子の心中はどのようなものだったでしょうか?
中国明代の陰間茶屋「長春宛」!?
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