第3回 禁断の林檎(アップルⅡ)を〝密輸〟したふたりの日本人

「先日アメリカから戻ったんですが、サンフランシスコのコンピュータフェアで6502を使った、なかなかいいコンピュータを見つけたんですよ」
「へぇ、どこのやつ?」
「アップルというベンチャー企業の作ったものなんですけどね」
「アップル?聞いたことない社名だね。どんな風にいいわけ?」
「家庭用のテレビでハイレゾのカラー表示ができるんですよ。しかも値段が1,300ドルほど、日本円だとたった36万円程度です」
ハイレゾのカラーグラフィックを表示するのに数百万のミニコンを使っていた時代でした。ふたりは興奮した様子で「禁断の林檎」の”密輸”の話をつづけます。

登場人物たち

スティーブ・ジョブズ 言わずと知れた、アップルコンピューターの創業者。1976年に創業し、1980年に株式上場して2億ドルの資産を手にした。その後、自分がスカウトしたジョン・スカリーにアップルコンピューターを追放されるが、1996年にアップルに復帰。iMac, iPod, iPhone などの革新的プロダクトを発表しアップルを時価総額世界一の企業にする。

水島敏雄  東京で「ESDラボラトリー」という小さな会社を営む。マイコンの技術を応用し、分析、測定のための理化学機器の開発を行うために作った会社で、ESDという名称は、 Electronics Systems Development の頭文字をとっている。東レの研究員として働いていた時代から大型コンピュータや技術計算用のミニコンに通じており、マイクロコンピュータの動向には早くから注目していた。ESDは日本初のアップルコンピューターの代理店となる。

『スティーブズ』

曽田敦彦 構造不況の中、業績が芳しくない東レが、「脱繊維」を掲げ新分野として取り組んできたのが磁気素材の分野だった。ソニーのベータマックス用としてはさらに薄地で耐久性のあるテープ素材の開発が必要で、45歳になる曽田はこのプロジェクトの中心として部下に20名以上の研究員を従えている。地味で根気のいる仕事ではあったが、東レがハイテク新素材メーカーへステップアップする上でこのプロジェクトは重要な意味を持っていた。



日本の老舗合繊メーカーである東レ。本社は東京だが、本拠地は琵琶湖に面した滋賀県大津市にある。ここにある開発研究所で主任研究員として在籍している曽田敦彦は、長く取り組んできた家庭用ビデオテープの開発プロジェクトを終えたところであった。

家庭用ホームビデオは、ソニーが1975年に発表したベータマックスを契機として一般家庭に普及しつつあった。構造不況の中、業績が芳しくない東レが、「脱繊維」を掲げ新分野として今回取り組んできたのが、ハイテク、つまり磁気素材の分野であった。そんなプロジェクトのひとつがこれ。ベータマックス用としてはさらに薄地で耐久性のあるテープ素材の開発である。

45歳になる曽田はこのプロジェクトの中心として部下に20名以上の研究員を従えている。地味で根気のいる仕事ではあったが、東レがハイテク新素材メーカーへステップアップする上でこのプロジェクトは重要な意味を持っていた。構造不況の真っただ中にある旧三井財閥系の合繊メーカーは、積極的に新分野に参入することでそれぞれの分社化を促進するという、いわば身軽になるための転換策を余儀なくとりはじめていた時期だった。

かつての同僚であり、いまは研究用機器を東レに多く納めている水島敏雄から曽田に電話が入ったのは、季節が夏めいたある日の午後のことである。無論電話は東京からだ。わざわざ電話をかけてくるからには何か新しいニュースがあるに違いない。

「先日アメリカから戻ったんですが、サンフランシスコのコンピュータフェアで6502を使った、なかなかいいコンピュータを見つけたんですよ」

「へぇ、どこのやつ?」

「アップルというベンチャー企業の作ったものなんですけどね」

「アップル? 聞いたことない社名だね。どんな風にいいわけ?」

「家庭用のテレビでハイレゾ(高解像度)のカラー表示ができるんですよ。しかも値段が1300ドルほど、日本円だとたった36万円程度ですよ」

「へぇ、それはずいぶんと安いな」

「そうでしょ。そちらの研究所じゃ、ハイレゾでカラーグラフィックを出すために、まだ数百万もするミニコンを使っているんでしょうから」

「そのとおりだ。もしその話が本当なら、興味があるね。ぜひ見てみたいね。6502というマイクロチップは僕も注目していたから」

「いや、ここのところマイコン製品が進化する速度は驚くべきものです。今度一緒に視察に行きませんか。曽田さんは英語も堪能だし、私も助かります」

「アメリカに? いやいや、僕はサラリーマンだから、君のように自由に海外なんかへは行けないよ」

「休暇を取ればいいじゃないですか。8月から出荷と言ってましたから夏休みを兼ねて。ぜひ曽田さんにも見てもらいたいんです。うかうかしていると業界中が変わってしまいますよ」

「おいおい、これは強引だな。いや、実は僕も七月から東京に転勤することになったんだ。アナリスセンターを別会社として独立させることになるんだ」

「アナリスセンターが独立?」

「ああ。その設立準備のために、単身で東京に転勤になるというわけなんだ。しばらく独身寮住まいになりそうだよ」

「そう、それは楽しみですね。ぜひお会いしましょう」

電話口の向こうで水島は、古巣の部署が本社から追い出されることをまるで喜んでいるようでもあった。

(楽しみだと?)

電話を切ってから、曽田はかつての同僚水島のことを思い巡らした。声の感じでは、あいかわらず元気のようだ。自分よりも3歳年下のはずだから、今年で42歳か43歳のはずだ。同じ技術畑に身を置く者として、水島の新情報には少なからずの興味を覚える。曽田は東レからの派遣留学生として渡米していた経歴を持っていたものの、しかしサラリーマンにとって「海外出張」は依然贅沢で遠い存在であることに変わりはない。その分、自由に日米間を行き来できる水島の社長という身分は少しうらやましくもあった。

曽田と水島は、東レの鎌倉基礎研究所でよきパートナーとして仕事をともにした旧友である。曽田は、名古屋大学で博士号を修得した研究員で、水島も東京都立大学で修士号を取得し同じ研究員として東レに籍を置いていた。

通称「基礎研」と呼ばれる鎌倉の研究所では、化学繊維や合成樹脂などの開発に向けてさまざまな理化学分析が行われていた。入社後、ここに配属された曽田の主たる業務は、高分子構造の解析、つまりエックス線解析やガスクロマトグラフィーによる成分分析など、地味で細かな解析作業だ。そこに必要とされる計測機器、それらの設計を行うのが水島の仕事というわけである。時代の変遷とともに、いつしかその過程に「デジタル技術」なる未知なる異分子が入ってきた。それはまるでこれまで蓄えたノウハウをすべて変えてしまう黒船のような存在にも思えた。社宅棟が向かいだったことも手伝って、この「デジタル技術」に関する情報交換を通じて二人の関係はいつしか未来に目を向ける同志として深まったのだった。

やがて曽田が、会社から米国の大学に2年間留学派遣されることになった。それを機に、二人の距離は疎遠となっていった。帰国した後も、曽田は鎌倉の基礎研から東レの本拠地、滋賀県大津の開発研究所へと、異動となった。だが場所を隔ててはいても、急速に展開するコンピュータの技術動向についての情報交換は絶えることはなかった。

実のところ、東レ本社はすでに、研究所の分析部門を独立させ別会社にすることを決定していた。業績改善のために、企業が分社化を進めることはいつの時代でも珍しいことではない。分析部門が本社から離れ、社内の研究室をクライアントとして独立する形を採るこの子会社は「東レアナリスセンター」という仮称で設立準備が進められていた。そしてこの子会社に、曽田は転籍することが決まっていたのだった。

設立準備のために妻を滋賀に残し、東京本社に単身で着任することになった曽田は、この子会社で次長職に昇進することが内定していた。以前水島がESDを設立する際には、曽田も発起人として名を連ねていたのであるが、自分自身は水島のように独立して世渡りをしていくタイプではない。一人独立していった友人の動向を仕事を通じて見守るだけであった。だが今回の東京転勤で、間近で水島の業界と触れることができる。四十代半ばを過ぎたサラリーマンにとって、少年時代にも似た興奮が胸中にわき上がるのを感じていた。

赴任したばかりの曽田が本郷にあるESDラボラトリー社を訪れたのは暑さが本格的になりはじめた七月の午後のことである。一般の住居型マンションの呼び鈴を押すと、中から水島がにこやかに出迎えた。

靴を脱いで中に入ると、2DKの小さなマンションの一室には水島の他に、アシスタントらしき2人の女性の姿があった。オイルショックの影響もあるのだろうか、水島の会社は創業3年目にして成長の一途とはまだいえないようだ。一九七三年、突如として日本経済を直撃したオイルショック。その余韻に締めつけられているのは、我が身を置く東レとて同じである。まさに、分社化による体質改善を迫られているわけだ。

もともと東京の下町気質の中で育った水島は、大手企業の官僚的体質に水が合うとは言えなかった。納得がいかないことには徹底して議論する性格の研究者は、大企業を飛び出して独立しているほうがより自然体に、より魅力的にみえた。半導体産業の勃興は、そんな独立にちょうどよい契機だったのかもしれない。

一九七〇年代の日本は、大阪万国博覧会で幕を開けた。ロボットオートメーションと大量消費時代の到来を象徴するにふさわしく、万国博覧会は日本の精鋭企業群が最新の工業技術で高らかに明るい未来をうたいあげた。水島が独立し会社をはじめたのはこの直後の、一九七四年である。

そもそもESDラボラトリーは、発展成長を遂げつつある工業産業でのロボットオートメーションの需要をにらんだものだった。東レで身につけた技術力とノウハウを活かして事業を営みはじめた水島が、企業に残された曽田の目にはうらやましくも見えたものだった。

女性が出してくれた冷たい茶を飲みながら、水島は曽田に「アップルⅡ」というマイクロコンピュータについて語りはじめた。

「アップルⅡが採用している6502チップは、以前から注目していたんですけどね、設計思想が、インテルのものなんかよりもよっぽど進んでいるんですよ。だいたい、業界はインテルの8080ばかり支持しすぎだ。設計が 電卓用 のわりに価格が高すぎる。その点6502は、ミニコンの設計思想に近い、真のコンピュータですよ。廉価だが、非常に洗練されている」

「確かに、インテルのプロセッサはレジスタ指向な分、グラフィックが不得手だね」

「そう、私はこの6502がもっと評価されるべきだと思いますよ。アップルというメーカーは、なかなか目の付けどころがいい」

プログラムを書く者にとって、マイクロプロセッサの特性の違いは大きな意味を持つ。米国で通信販売で話題を呼んだアルテア、あるいは日本でのTK―80といったキットが採用していたインテル社のチップは、すでに主流として注目を浴びていた。業界が定める仕様標準もインテル社中心に進んでいたが、水島はそういった流行を嫌っているようだった。モトローラをスピンアウトしたエンジニアが興した新興メーカー、モステクノロジー社から発表された6502はインテルとは対照的で、グラフィックや制御といった幅広い用途に適した設計をしていると水島は魅了された口調で語った。

二人の旧友の議論は白熱した。水島はアメリカで起こりつつある「胎動」をいろいろな言葉で曽田に伝えた。その端々から、水島がこの製品を日本で販売したいという強い意志を感じることができた。やがて夕食の時間が近づいた頃には、翌八月の水島の渡米に曽田も同行する話がまとまっていた。留学経験のある曽田が米国での運転と通訳をする代わりに、宿泊と食事代は水島の会社が負担することがその条件だった。


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再び、かつてベンチャーだったアップルの製品に胸をときめかしていたあの時代の空気感を若い世代に伝えたい!!

この連載について

初回を読む
林檎の樹の下で -アップルコンピュータジャパン物語- ✕スティーブズ外伝

うめ(小沢高広・妹尾朝子) /斎藤 由多加

ふたりのスティーブ、ジョブズとウォズニアックが設立したアップルコンピューターは、1977年4月、サンフランシスコで開催されたウェストコーストコンピュータフェアに出展した。ジョブズがこだわりにこだわったベージュ色の本体の数が足りないので...もっと読む

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