登場人物たち
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マイク・マークラ アップルコンピュータの初代会長に就任したのは元インテルの社員A・C・マークラ、通称マイク・マークラと呼ばれるベンチャーキャピタリストであった。ウォズとジョブスの二人は、マークラからの資金を得て本格的に新機種「アップルⅡ」の開発を開始する。 |
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水島敏雄 東京で「ESDラボラトリー」という小さな会社を営む。マイコンの技術を応用し、分析、測定のための理化学機器の開発を行うために作った会社で、ESDという名称は、 Electronics Systems Development の頭文字をとっている。東レの研究員として働いていた時代から大型コンピュータや技術計算用のミニコンに通じており、マイクロコンピュータの動向には早くから注目していた。ESDは日本初のアップルコンピューターの代理店となる。 |
1977年は、8ビットのマイクロプロセッサを利用したボードコンピュータが数多く誕生した歴史的な年となった。このウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)は、これら黎明期の製品、試作品を一堂に出展させた大掛かりな試みとして話題を呼んでいた。特に、ここで初めて披露されたアップルⅡは、後に時代を変えてしまうものだった。
マイクロコンピュータ―それは、「マイクロプロセッサ」の発明によって初めて実現した新しい存在であった。後にパーソナルコンピュータと呼ばれるこの小さな製品は、大型コンピュータの延長として産み出されたものではない。それは、あくまで時代が産み落とした偶然の「副産物」だったのである。その源流は、1970年代初頭にまで遡る。
1970年代前半、日米のメーカー各社が電卓競争を繰り広げた。電卓をより安く、より小さく、そしてより高機能化することを追求したその熾烈な競争は、「答え一発、カシオミニ」というキャッチフレーズを社会の流行語に押し上げたほどであった。その結果、半導体は驚異的な速さで進化を遂げた。トランジスタからIC(集積回路)を経て、LSI(大規模集積回路)への移行が急速に進み、複雑な処理を行うために組み合わされた複数の回路が、たったひとつのチップに取って代わられるようになった。かつてはハンダ付けされた回路基板が、わずか数センチ四方ほどの小さなチップの中にすべて組み込まれるようになったのである。
そしてこの電卓戦争から、あるひとつの副産物が産み落とされた。汎用マイクロチップである。
汎用マイクロチップの最大の特徴は、プログラムしだいでさまざまな機能を果たせることだった。これは本来の電卓の機能である四則演算を超え、複雑な論理演算を行える可能性を持っていた。この時点で、マイクロチップには「ソフトウェア」という概念が持ち込まれることになる。
汎用マイクロチップの第一号である「インテル4004」は、まださほどの処理能力は持っていなかったが、続いて発表された「8008」、そして3代目の「8080」へと進化するにつれ、さらに複雑な命令を実行することが可能となった。
この汎用マイクロチップにソフトウェアプログラムという命令群を読み込ませることで用途を大幅に拡張したのが「マイクロコンピュータ」である。
それまでは、コンピュータといえば、大企業や大学、そして官公庁に置かれている大型のものと相場が決まっていた。一般人は拝顔することすらできないこの「コンピュータ」を、自分の好きなように操作することはマニアたちにとっての夢のまた夢であった。
マイクロプロセッサに他の部品を付け、「マイクロコンピュータ」の組み立てキットとして販売した代表選手がMITS社であった。そもそもこういったキットは、プログラミングをすること以外に明確な用途を持つものではなかった。にもかかわらず雑誌のメールオーダーで販売された組み立てキット商品「アルテア」が、予想外のヒットとなってマニアの間で流行になったのは1975年のことだった。これが引き金になって、コンピュータのミニチュア版を自分たちで製作することが、マニアの間でのブームとなって広がっていったのである。
無線機を自作したり、鉄道模型をいじったり、あるいはテレビを改造したりと、何らかの形でエレクトロニクスに強い興味を持つ電子フリーク…その一部は、後にハッカーと呼ばれるようになるのだが…が、こういったマイコンキットに飛び付いた。専門誌が創刊されるようになり、いたるところで情報交換会が自発的に開かれるようになった。
手作りのマイコンを自慢しあうこういった活動は、大手のメーカーとはまったく切り離されたものとして米国の各地に飛び火したが、特に盛んだったのは、ハイテクメーカーによる部品供給が豊富な、サンフランシスコからサンノゼへかけての「シリコンバレー」と呼ばれる一帯だった。
ベイエリアでも最大規模を誇っていたマニアの集まりが、ホームブリューコンピュータクラブである。
このサークルの主宰者は、名をフレッド・ムーアといった。学生時代にベトナム戦争出征の召集令状を拒否し、2年間の刑務所生活を送った経歴を持つ人物だった。このムーアが出所後マイクロコンピュータに興味をいだき、会合を持ちはじめたのがこのホームブリューコンピュータクラブの発祥となる。ホームブリューとは「家庭醸造」という意味だが、同時に英語では「密造酒」のようにアングラで怪しい響きを持つ言葉でもある。彼らをマイコン製作に駆り立てたものは、必ずしも単なる「趣味」としての楽しみだけではなかった。そこにあるのは、当時のアメリカが抱える大きな時代背景だった。
ホームブリューコンピュータクラブが発行していたニューズレター
ベトナムとドラッグ、ヒッピーとウッドストックに代表される激動の60年代も、ニクソン政権の強行ともいえる政策によって一見鎮静化したかにみえた。その余波はしかし70年代に入ると、大学キャンパスを中心とした地域での体制批判のスピーチ活動、フリーペーパーの配布、あるいはコミューン生活や瞑想といった活動となって若者たちの間に復活した。そこに共通しているのは依然として、しらけたアメリカと政府への不信感、そして体制への反発であった。
ムーアを中心に開催されたこの集まりもそれに似て、マイクロコンピュータで社会通念を変革したいという雰囲気を携えていた。ここで産み出されたいくつものプロトタイプはやがて製品となってゆくのだが、一部のマニアは、そのターゲットを彼らをベトナムに駆り出した国防総省のコンピュータなどに向けるようになり、やがて「ハッカー」と呼ばれるような存在になってゆくのである。
アップルの創業者であるスティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックが親交を深めたのも、このホームブリューコンピュータクラブの場においてである。当時スティーブ・ジョブスは21歳、ウォズニアックは26歳の若者であった。
ヒューレット・パッカードの社員である26歳のスティーブ・ウォズニアック、通称ウォズが作ってくるボードコンピュータは、クラブの中でとりわけ評判がよかった。ウォズがテレビの知識を利用して作ってくるコンピュータの特徴は、家庭用テレビに直接つなげられることだった。
ウォズはホテルの客室に設置されている有料ビデオシステムの設計の仕事に関わったことがある。そのときの知識が、彼が後に作るコンピュータに大きく活かされることになる。そしてこのウォズニアックに目を付けたのが、スティーブ・ジョブスだったというわけである。アタリ社に勤務していたジョブスがウォズにアーケードゲームの製作を発注したことをきっかけに二人は急速に接近し、やがてコンピュータ会社を作ることとなる。このときジョブスがプログラマーであるウォズに発注したブロック崩しのゲーム「ブレイクアウト」は、後にアタリ社のドル箱的な大ヒットとなり、二人は急速に拡大するハイテク産業の可能性にあらためて気付かされることとなった。
1976年、二人がお金を出し合って設立した会社「アップルコンピュータ」は、一時期インド思想にかぶれてヒッピー生活を送っていたジョブスの林檎園でのコミューン生活にちなんで名付けられた。アップルコンピュータの最初のビジネスは、ウォズが製作したハンドメイドのボードコンピュータ「アップル1」の販売である。ホビー用の電子機器製品を扱って人気を集め、チェーン店舗拡大の途上にあった「バイトショップ」では、二人の若者が持ち込んだこの「アップル1」が大好評を博した。総製造数は百数十そこそこだったものの、これは大ヒット商品といえた。そこでウォズとジョブスの二人は、出資者の支援を得て本格的に新機種「アップルⅡ」の開発を開始する。出資を引き受け、初代会長に就任したのは元インテルの社員A・C・マークラ、通称マイク・マークラと呼ばれるベンチャーキャピタリストであった。
アップル最初の製品Apple1は、むきだしのボードだった
ウェストコーストコンピュータフェアで初披露された彼らの「アップルⅡ」は、それまでのマイコンキットよりさまざまな点で進化していた。コンパクトな箱に収められ、タイプライターと同じような文字キーボードを備えているアップルⅡは、家庭用テレビにそのままつながることが大きな特徴だった。また、むき出しの回路基板にLED(発光ダイオード)の簡単な表示装置を付けたキットより、商品としてはるかに洗練された外観をしている。これは「形」を重視するジョブスのこだわりによるものだった。また最初から内蔵されていた基本的ソフトである「BASIC言語」は、数字と記号を使って機械語でプログラムをするそれまでのキットの敷居をぐっと低くした。
アップル初期の大ヒット製品Apple Ⅱ (写真はモニタとフロッピーディスクドライブを接続した状態のもの)
それまでは外に付けられていた電源変圧装置(当時、最も重量・大きさを占めていた)までを本体に収めたアップルⅡのスマートなデザインは、家庭用のカラーテレビに接続できることとあいまって、マイコンの「ひどく難解な機器」というイメージを一新するものだった。
数日後、水島はシリコンバレーにあるアップル社を訪れてみることにした。名刺で探し当てた住所は、クパティーノ市を南北に走るスティーブンス・クリーク大通り沿いにある。その一帯にはカリフォルニア特有の低層のオフィスビルがあり、アップルコンピュータ社はその1棟をオフィスとしていた。受付の女の子がガムを噛みながら水島に応対した。
想像通り、このアップル社は、ほんのわずかな従業員しかいない小さな会社だった。スーツをしっかりと着こなした男が出てきて、突然の来訪客に応対した。男はA・C・マークラといい、名刺の肩書には会長と書かれている。オフィスの中の社員よりはずいぶんと年長で、先日の副社長という肩書の若者よりもずいぶんとビジネスマンらしく見えた。
オフィスの中では、ショウでやっていたものと同じブロック崩しのデモが動いていた。
水島は、決して得意とはいえない英語を駆使して、エンジニアとしてこの優れた製品を大変評価していることを伝えた後、購入を申し出た。
「私もこの小さなコンピュータには驚きました。何としてもこのすばらしいアップルを持って帰りたい。いま購入することはできますか?」
「残念ながら、いまは試作品しかありません。八月頃には出荷が開始できると思いますが、現在のところはまだ出荷体制が整っておりません。その時期に、またおいでいただければと思いますが」
「卸値は1台いくらになりますか?」
「直接個人には販売はしませんが、1300ドル程度になるでしょう。」
《1300ドルそれは安い!》
心の中で思わずそう叫んだ。いま受託開発しているボードの製造コストよりも、はるかに安いではないか。これを使えば廉価でしかも早く計測機器が作れる。1台買って帰りたいところだが、それは次の訪米の機会を待つしかないようだ。
「卸していただく場合、代理店などの手続きは受け付けているのですか?」
「いや、こちらも準備中です。もうしばらく時間をくだされば、準備が整うと思いますが……」
マークラの口調は、アップル社はショウの後の対応で手一杯といったものだった。だが、水島はすでに、出張先で偶然見つけたこの奇妙なマシンに大きく魅せられはじめていた。