小説には音の世界が広がっている
小説における「たどるべき一本の糸」が文体だとすれば、映画の「一本の糸」はどんなものだろうか。
映画の場合は……。なんでしょうね。映画は禁じ手が多すぎるし、すぐ壊れてしまうから、やってもやってもわからない。言葉という小説で使う道具は、人を誘導しやすいし、インパクトや説得力を持たせることができる。けれど、それを映像でやるのって難しい。台本でいちど話が完成したのかとおもえば、映画はその通りに撮っても決してうまくいかないものですし。台本の状態のままでは、失敗作なんですよ。だから現場で、どう撮るかといつも考えていく。
無限にある方程式をどう組み合わせていくか。考えて考えて、最後に作品に生命が宿るわけですけど、なかなか宿らないですよ。1千日の時間があったとすると、最後の1日でようやくぱっと火がつくといった感じ。生命が宿ったものをみなさんには届けているのだけれど、そこに至るまでの数百日は、毎日残念なおもいをしているんです。
小説と映画では、これほどまでつくり方が異なるもの。ではなぜ、今回のように、映画をつくるまえにいったん小説にもするのだろう。
それはちょっと違います。映画をつくるために必要かどうかで小説を書くのではなく、小説を書きたいから書いている。それだけ。映画化するうえでの過程とかではなく、小説を書くモチベーションは小説を書きたいということに尽きます。同じように、音楽をつくりたいときは音楽をつくりますし、映画だってそれをつくりたいからつくる。自分のなかで、それぞれの作業はかなり違うもの。小説は小説独自の、言語世界で完結するものであって、音の世界だなとおもいますね。
小説は、音の世界?
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