西武球場のそばに住んでいた
少しでも誤解されるのは癪なので「清原最低。馬鹿野郎。」という前提を伝えてから話を始める。幼少期を東京都東大和市の多摩湖の程近くで過ごしたので、風向きによっては湖を挟んだ西武球場から、歓声がしっかりと届いてきた。恒例だった夏の渡辺美里コンサートの日には「わかり始めた My Revolution」のサビがわかり始めるくらいのクリアさで伝わってきたものだ。当然、地域の子のほとんどが熱烈な西武ライオンズファンとなり、高麗川への遠足の日に一人だけ巨人の帽子をかぶってきた村田君は軽蔑されたが、日本シリーズで巨人が西武を破った翌日には鼻で笑うような表情をクラス中にバラ撒くような子だったので、イジメには繋がらなかった。
人目を憚らずに泣いた記憶はいくつかあるが、西武球場で、代打の切り札・安部理が放ったエンタイトルツーベース(ワンバウンドで外野スタンドに入るヒットのこと)を見事にキャッチした後の記憶は色濃い。ホームランと同様にそのボールをもらえると思って大はしゃぎしていたところ、係員がやってきてボールを回収されたのである。選手が打ったボールをキャッチするなんて悲願。そんな悲願が実った10秒後くらいに没収されたものだから、引き換えに記念バッジかなにかをもらったものの、こんなに分かりやすい絶望があるものかとうなだれて、しばらくしたら涙が溢れ出てきた。
んで、その日を境に、というわけでもないのだが、野球への熱は徐々に冷めていく。小学校の近くに捕手・伊東勤選手の家があったから、何人かで集って家の前で「伊東〜!」と叫んだりしたが(申し訳ありませんでした)、ほぼ全員が持っていた「野球選手になってやる」という仄かな夢はジワジワ消えた。でも、秋山・清原・デストラーデという豪華なクリーンナップを観に、時折、球場へ足を運んではいた。
「少年たちの夢を壊した」というフレーズ
逮捕直後、一撃必殺のように「清原は少年たちの夢を壊した」というフレーズが使われていたが、その言葉だけで片付けるのは「少年たちの夢」をシンプルに見積もりすぎだと思う。想像以上にデッカいものなんだよ……というわけではなくむしろ逆。少年たちの夢って平気で壊れるし、壊れたことすら平気で忘れたりもする。つまり、分かりやすく夢を設定している少年なんてごく僅かだし、むしろ少年たちは、大人が輪郭をつけて投げつけてくる「夢」をヒョイヒョイ除けてきたはず。清原は、少年たちの夢を壊したから悪いわけではなく、罪を犯したから悪いのだ。当たり前のことなのだが、尾ひれに「夢」を塗りたくって、そっちに比重を置いている報道が目立った。
年を重ねると、少年時代と比べてピュアな心が削られてきたな、と思うことがしばしばあるが、えっ、でも、そんなのは少年時代から既に削られていたじゃんか、と思い直す。西武の各選手の応援歌をソラで歌えるのは当然だったが、小刻みなバッティングで出塁を重ねる1番バッター・辻発彦選手の応援歌が「燃えろ発彦 燃えろ発彦 場外ホームラン」だったことに対して、「辻は場外ホームランなんて打たないし」と冷静に論評を重ねていた(調べたら16年間プレーして56本塁打だ)。清原の応援歌は「光輝く 大空高く 燃える男の チャンスに強いぞ清原」。これから打とうとしているところに「チャンスに強いぞ清原」と提示されるのってどうなんだろう、という疑問が浮上。チャンスに強いときと弱いときの落差が激しいからこそ、彼は観衆を魅了したわけだが、そのあたりを指摘していた。実にイヤな少年である。
桑田の顔にあるホクロの数を数えた清原
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