最後のジーグを弾き終えると、蒔野は、スタンディング・オベーションでその演奏を称えられた。洋子ももちろん立ち上がって拍手をした。
蒔野は、感極まった面持ちで会場の全体を見渡し、一礼した。舞台袖に下がって、また戻ってくると、アンコールに《ヴィジョンズ》と《この素晴らしき世界》を演奏した。ようやく少し安堵したような表情だった。すっかり満足した聴衆も、ほとんど歌い出さんばかりの様子で、洋子の隣の夫婦は、実際に小声で歌詞を口ずさんでいた。
二度目のアンコールに応えて、再び舞台に登場した蒔野は、この日初めてマイクを手にして英語で話を始めた。感謝の気持ちを伝えたあと、
「ここの会場は初めてなんですが、音もとても素晴らしくて、演奏していて、とても良い気分でした。近くにセントラル・パークもあるし、……今日はいいお天気ですから、あとであの池の辺りでも散歩しようと思ってます。」と続けた。聴衆は、そのやや唐突な“このあとの予定”に、微笑みながら拍手を送った。洋子は、彼の表情を見つめていた。
蒔野はそして、一呼吸置いてから、最後に視線を一階席の奥へと向けて、こう言った。
「それでは、今日のマチネの終わりに、みなさんのためにもう一曲、この特別な曲を演奏します。」
洋子は、微かに笑みを湛えていた頬を震わせ、息を呑んだ。蒔野がこちらを見ていた。そして、「みなさんのために(for you)」という言葉を、本当は、ただ「あなたのために(for you)」と言っているのだと伝えようとするかのように、僅かに顎を引き、椅子に座った。
ギターに手を掛けて、数秒間、じっとしていた。それから彼は、イェルコ・ソリッチの有名な映画のテーマ曲である《幸福の硬貨》を弾き始めた。その冒頭のアルペジオを聴いた瞬間、洋子の感情は、抑える術もなく涙と共に溢れ出した。……
*
終演後、蒔野は独りセントラル・パークを散歩しながら、午後のやわらかな日差しに映える美しい木々の緑を眺めていた。週末で家族連れも多く、芝生のあちこちでピクニックや日光浴を楽しむ人の姿が見えた。
コンサート会場に洋子がいることに気がついたのは、第一部の最後の曲を弾き終わった時だった。予期せぬ喝采に、立ち上がって一礼しようとした時、彼は、一階席の奥の暗がりに彼女が座っているのを目にし、時が止まったかのようにその場に立ち尽くしてしまった。そして、再び舞台に立った時、彼は最初に、彼女がそこにいることを確かめたのだった。
新しいバッハは、誰よりも彼女に聴いてほしかった。その喜びに満たされるとともに、五年前の夜、パリのアパルトマンで、ジャリーラのためにギターを弾いた時の記憶が蘇った。椅子に座ると、あの時の心境を胸に含んだまま、無伴奏チェロ組曲第一番の演奏に取りかかった。……
どこか遠くのパトカーのサイレンが、彼方の空に轟いて消えた。蒔野は、太陽の光の移ろいを感じ、少し足を早めた。彼は先ほどから、リルケの《ドゥイノの哀歌》のあの《幸福の硬貨》の一節を断片的に思い返していた。
「……私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか? そこでは、この世界では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、……彼らは、きっともう失敗しないでしょう、……再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たち……」
深い緑色をした「あの池の辺り」に差し掛かると、蒔野は逸る気持ちと不安とで、ギターケースの持ち手を何度も握り直した。周囲を広く見渡しながら歩いた。池に沿ってゆったりと曲がった歩道を抜けたところで、視線の先の木陰に一つのベンチが見えた。