—なぜなのかしら?』

洋子はニューヨークで開催された蒔野のコンサートの客席にいた。
蒔野は洋子が来ていることを知らない。
そして、開演の時刻がせまりー……。

 洋子は、自宅のしんと静まり返った部屋で化粧をしながら、その朝、鏡の中の自分を見つめていた。蒔野に最後に会ったのは、もう五年前のことだった。何を着ていくべきか、散々迷って、結局、クロエの白いワンピースに、薄手のジャケットを羽織って出てきた。目立ちたくないと思っていたが、終演後に彼に会うかもしれないと思うと、もっと他の格好があったような気がした。

 会場は満席で、日本語の会話も、ちらほら聞こえてきた。洋子の両隣は、蒔野のCDを聴いて来た地元の人間らしかった。

 開演時間となり、客席の照明が落とされ、舞台が明るくなった。咳払いの残りが、静まりゆく会場に、最後に一つ二つ響いて止んだ。やがて、舞台袖のドアが開いた。拍手が起こり、蒔野は黒いシャツにズボンという格好で舞台中央まで進み出て椅子に腰を下ろした。蒔野がいる。過去の記憶の中ではなく、駆け寄って行けるほどの近い距離に。そのことの現実感を、洋子はしばらく捉えそこねていた。

 プログラム一曲目の《黒いデカメロン》が、緊迫した、ほとんど魔術的なほどに広大な二オクターヴの跳躍で始まると、会場はもう、先ほどまでとは別の場所になっていた。反復的な旋律が次第に空気を濃くしてゆく中で、ギターの長音が、会場の最も遠いところにまで伸びてゆく。この曲をよく知っている者、知らない者が、それぞれにその響きに驚いた。

 それから蒔野は、多彩な表現で、一曲ごとに新鮮な音楽的風景を現出させていった。若い頃の一分の隙もないような世界とも違って、今は寧ろ、音楽そのものに少し自由に踊らせて、それを見守りつつ、勘所で一気に高みへと導くような手並みの鮮やかさがあった。

 聴衆の感嘆は、楽曲が終わる度に、拍手と共に熱を帯びていった。最後のブローウェルのソナタの躍動的な第三楽章を興奮しながら聴き終えると、まだ第一部の終わりというのに、思わず立ち上がって「ブラヴォー」と叫んだ者がいた。

 蒔野自身、その反応に少し驚いたのか、椅子の前に進み出ると、そのまま数秒間、棒立ちになった。そして、ようやく我に返ったように一礼し、舞台袖に下がっていった。

 洋子は、休憩時間にロビーで一人、コーヒーを飲みながら、方々で交わされている高揚した会話の断片を聞いていた。

 蒔野は、ここNYでも聴衆の心を掴んだのだと彼女は感じた。そして、コーヒーカップを皿に戻そうとして、自分の手が、目で見てはわからないほど微かに震えている音を聞いた。蒔野の演奏については、ただ、素晴らしいという言葉しか思いつかなかった。今日ここに来るまで、彼女はずっと、あの五年前の彼の記憶を大切に保管してきたのだったが、彼自身は、もうとっくに、自分の手の届かない世界へと離れていってしまっていた。彼を遠くに感じ、自分を何ら特別でない一人の聴衆に過ぎないのだと自覚した。それは彼女の体の芯で凝っていた強ばりを、少しくほぐしたが、同時に言い知れぬ寂しさをも齎した。蒔野が、こちらに気づいた様子はなかった。

 どうしてもバッハを聴きたかったが、自分を見つけることで、彼の集中力が乱され、この既に輝かしい成功が約束されているかのようなコンサートが台なしになってしまうのであれば、むしろ帰るべきではあるまいかと考えた。自分の存在が、蒔野にとっては邪魔なのだという早苗の言葉を、洋子は半ば納得したように感じた。

 洋子はせめて「おめでとう。」と一言伝えたくて、手帳を取り出し、手紙を書きかけたが、途中でページを破って手の中で丸めた。

 第二部の再開が告げられると、彼女は建物の出口とホールの入口とを何度か見比べた。今日は本当に爽やかないい天気だった。人気がなくなるまで、彼女はそこで迷っていた。そして結局、また座席へと戻った。

 洋子は、自分の感情が混乱し始めているのを感じた。再び蒔野が舞台に姿を現した。シャツだけ、白いものに着替えている。彼の遠さを感じている今だからこそ、来る前に考えていた彼との関係の区切りは、自然につけられるはずたった。しかし、いざその現実に直面すると、とうに断念されていた彼への思いが俄かに沸き起こってきて彼女を動揺させた。

 後半のプログラムであるバッハの無伴奏チェロ組曲は、第一番、第五番、第三番が選ばれていた。

 演奏が始まると、洋子は、俯き加減で、独り静かに考え事をしているような蒔野の姿を見つめた。ギターは、空間の一点にピンで留めて固定されているかのように微動だにしなかった。昔から、ノイズの少ないことが評価されていたが、会場の音響効果も手伝ってか、この日の音像は、鏡に映し出されたかのように細部まで透徹して冴えていた。

〈ハイパー・ロマンティシズム〉というブローウェルのコンセプトを体現したような第一部と違って、蒔野の演奏も、より構築的で、音の連なりには、生気の漲る秩序感があった。

 洋子は目を閉じ、彼の〈アランフェス協奏曲〉の演奏を聴いた五年半前の記憶を脳裏に蘇らせた。あの夜、二人で交わした会話と微笑み。別れ際にタクシーの窓越しに見つめ合った、名残を惜しむような目。……それから、パリでの彼の愛の告白、リチャードとの結婚生活、蒔野とのスカイプでの会話、東京のホテルのベッドで眺めた豪雨の夜空、ケンの出産、早苗との対面、長崎の母の横顔、サンタ・モニカで自分を抱きしめてくれた父、……様々な記憶が、時間の前後を問わず、断片的に脳裏を過ぎった。

 蒔野と自分との間に流れた時間の記憶が、彼女の胸を押し潰した。洋子は、閉じ合わされた瞼の隙間に涙が満ちてゆくのを感じ、眉間を震わせながらそれを堪えた。そして、『—なぜなのかしら?』と、無意識にまた問うた。『なぜなのかしら?……』

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